杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

牧師不在の礼拝式について

牧師は、4月より飯能ルーテル教会の責任教職を兼ねており、奇数月の第2日曜日に飯能教会で司式・説教を行います。そのため、当日の杉並教会の礼拝式は、信徒のみで守ります。

9月14日(予定)、11月9日(予定)

マルタとマリアのもてなし

38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

きょうの聖書個所は「マルタとマリア」として知られている個所です。この二人の女性は姉妹です。ギリシア語には姉とか妹という単語がなく、単に姉妹ということが分かるだけなのですが、文脈から判断して、マルタが姉でマリアが妹であるとみなして、口語訳は39節を「この女にマリヤという妹がいた」と訳していました。

さて、そのマルタとマリアの姉妹の家にイエスさまが入りました。迎え入れたのはマルタです。おそらくイエスさまだけではなく、何人かの弟子たちも一緒に入ったことでしょう。そこでイエスさまが話をしました。マリアはイエスさまの足もとに座ってその話を聞いていました。一方マルタは《いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いて》(40a)いました。マルタにとって、イエスさまに仕えることは何よりも大きな喜びです。しかししばらくして、マルタはイエスさまの所に来て言います。《主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください》(40b)。すると、イエスさまが答えた・・・、というのがきょうの聖書箇所です。

この聖書個所をめぐっては、読む人によって感情の移入先が変わります。まずよく聞かれるのが、マルタに対する同情論です。マルタは、イエスさまたち一行をもてなすために忙しく働いていました。台所仕事に専念していたことでしょう。大切なお客さまであるイエスさまをもてなすためにすることは、たくさんあって、マルタは、いっしょうけんめい立ち働いていたのです。それなのに、妹のマリアは、マルタを手伝うこともしないでイエスさまのそばに座って話しに聞き入っている。「これはマリアも悪いでしょう。なんでお姉さんを手伝わないのか」というような意見です。

また、とくに教会の組織にあてはめてこのことを考えて、マルタを擁護する意見も多いように思います。つまり、「マルタも必要だ」という意見です。「たしかにマリアのように、みことばを聴くのは大事なことに違いありません。しかし、実際にはマルタのような人もいなければ教会は成り立ちません。ひたむきに台所仕事や奉仕活動をする人によって、教会は支えられているのだ」というような意見です。たしかにそうに違いありません。私たちはこれをどう考えたらよいのでしょうか。

あらためて聖書をもう一度見てみましょう。マリアはイエスさまの足もとに座って、イエスさまの話に聞き入っていました。マルタの方は、イエスさまの接待のために忙しく働いていました。しかしイエスさまのそばに来て言いました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。

このマルタがイエスさまに言った言葉は不思議です。マリアが自分の仕事をぜんぜん手伝わずにイエスさまの足もとに座っているのを見て、直接マリアを注意したのではなく、イエスさまに言っていることです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。確かにマリアの態度は不愉快です。しかし、本当に物申したい相手は、マリアではなくイエスさまだったのでしょう。マルタは「何ともお思いになりませんか」と言っています。「わたしだけ」が大変な思いをしていることについて、イエスさまに少しは気にかけて欲しかったのです。

そんなマルタの訴えを聞いて、イエスさまは静かに口を開かれました。《マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない》(42)。これはマルタを叱責する言葉ではありません。マルタの名前を二度繰り返して語りかけていますが、これは親しみを込めて言う場合です。イエスさまは、マルタを叱ったのではなく、愛情を込めて言ったのです。マルタの心の状態を誰よりも心配し、気にかけていたのはイエスさまだったのです。

しかしそこでイエスさまが語っていることは、とても重要なことです。たしかにマルタもイエスさまのことを考えて、いっしょうけんめいになっている。それは間違いありません。だからイエスさまも、マルタを叱るのではなく、やさしく諭すように言っています。しかし言っていることは、私たちの信仰の非常に大事なポイントです。

「しかし、必要なことはただ一つだけである」。これは、イエスさまをもてなすために給仕のことでいっしょうけんめいになっているマルタを気遣いながらも、本当に必要なことは何かということについて、釘を刺している言葉です。ここでイエスさまは、「あれもこれも必要だ」とは言っていません。「必要なことはただ一つだけである」と言っているのです。マルタもたしかに大切なことをしている。しかしどちらも同じように「必要か」と言えば、そうではない。「マリアは良い方を選んだ」と。マルタのしていることとマリアのしていることと比べたら、マリアは良い方を選んだのだとはっきり言っているのです。

そして「それを取り上げてはならない」と最後に言っています。つまり、イエスさまは、マルタがイエスさまに「妹に手伝ってくれるように言ってください」という要求に対して、はっきりと「否」と言っているのです。

そうすると、最初のところで触れたマルタへの同情論のように、「そんなこと言っても、マルタのように給仕をする人がいなければ教会はやっていけないではないか」という、言わばイエスさまの言葉への反発が起きることになります。

しかし、イエスさまは、いつも料理や給仕をすることが必要ではないと言っているのではありません。今、この場面ではどうか、ということです。今、イエスさまは御言葉を語っていました。神の国の言葉です。それに耳を傾けて聞くということが、必要なただ一つのことであると言っているのです。

イエスさまから神の国の言葉を聞くということは、後回しにできることだろうかと考えてみたいと思います。この時イエスさまとその一行は、イスラエルの民の隅々まで神の国の福音を宣べ伝えるために旅をしていました。きょうの聖書箇所は、エルサレムへと向かう旅の途上における出来事です。《一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた》(38)と書かれています。いつまでもマルタとマリアの家にいられるわけではありません。もしかしたら、この家には1時間しかいられないかもしれません。そう考えるとどうでしょうか。もしイエスさまが今ここに来て、1時間しかここにいられないとしたら、私たちは何をするでしょうか。接待をしているうちに時間は過ぎてしまいます。

そのように考えてみると、マリアの態度も、そしてイエスさまの言葉もどういうことかが見えてきます。かけがえのない時間です。もうこれで、地上にいるうちはイエスさまとお目にかかれないかも知れません。事実、イエスさまはいまエルサレムに向かう旅の途上にありました。それはご自分の命をもって、この世に救いをもたらすためでした。十字架にかけられる時は、刻々と迫っています。そのイエスさまが来てくださって救いの言葉をかたっていてくださるのです。そう考えると、イエスさまの言葉の意味が分かってきます。

私たちは週に一回、この礼拝に集ってきます。そして讃美歌を歌い、神のみ言葉を聴き取ろうとして耳を傾けます。礼拝は1時間ちょっとです。一週間には168時間あります。そのうちの約1時間、神さまの言葉を聞き取るために費やす。これは非常に貴重な1時間であるように思います。

人生は長いから、いつでも神さまの言葉を聞く機会があるでしょうか。しかし、人生のうちで、真の神さまの言葉を聞きたいと思う機会は、そう何度も訪れないように思います。「やがて歳を取って定年退職したら教会に行く」という人がいます。しかしその時が訪れるかどうかは誰にも分かりません。今は若いと思っていても、人生はあっと言う間です。本当に、あっと言う間です。いや、逆に、働き盛りで忙しいからこそ、そういう人のために語りかける神の言葉があります。神さまの言葉に耳を傾けることによって、私たちも、イエスさまによって神の民とされます。そしてイエスさまは、わたしたちにも必要なただ一つのことを失わないでいることを望んでおられるのです。決して当たり前ではない、かけがえのない尊い時間を与えられているということを心から感謝します。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子はエルサレム入りの前に遺言するように、マルタに「必要なことはただ一つ」と諭しました。多くのことに心を乱している私たちも神の国の福音を聴く時を大事に持てますようにお導きください。私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン

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