杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

読書会について

日曜日の礼拝後に、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

次回: 4月19日  「マタイによる福音書」の章内、「愛する人から贈られた聖書」から「取税人マタイの人間像」まで

夕礼拝について

今年度より、毎月第3木曜日に夕礼拝を行うことになりました。開式時刻は19時です。『ガラテヤの信徒への手紙』を読み進める予定です。

初回: 4月16日

牧師不在の礼拝式について

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(高野牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。

出張予定日: 5月10日

わたしたちを救い出すために

1人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、 2ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 3わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 4キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。 5わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

1. はじめに:手紙の冒頭に込められたパウロの切実な願い

この夕礼拝では、ご一緒にガラテヤの信徒への手紙を聴いていきます。ひと月に一回の礼拝ですから、ほぼ一年継続する予定です。

新約聖書の手紙の中でも、とりわけ激しい情熱と緊迫感をもって記されたのが、この『ガラテヤの信徒への手紙』です。冒頭の数節は、当時の手紙の慣習が踏襲されています。まず差出人であるパウロ、そして受取人であるガラテヤ地方(現在のトルコ中央部)の諸教会の信徒たちが明記されています。しかし、これは単なる事務的な宛名書きにとどまりません。パウロは他の手紙と同様、あるいはそれ以上の重みをもって、挨拶の言葉を添えました。

「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(3)。

「恵みと平和があるように」。これはパウロが好んで用いる定型の挨拶ですが、決して紋切り型な文言として書かれたわけではありません。彼はこの言葉の背後にある、言葉に尽くせぬほど重い救いの事実を、読み手に再確認させようとしています。だからこそ、挨拶を述べるやいなや、この「恵みと平和」を与えるためにイエスさまが何をなされたのか、その核心へと踏み込んでいくのです。

2. 救いの根拠としてのイエスさまの献身

パウロが提示する救いのドラマは、4節の言葉に集約されています。

「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(4)。

ここで注目すべきは、この救いがわたしたち人間の熱心な願いや努力から始まったのではないという点です。「わたしたちの神であり父である方の御心」とある通り、それはわたしたちの意志に先んじる、神ご自身の圧倒的な意志によるものでした。神が、自らの造られた被造物の救いを願い、独り子を遣わすことを決断した。この神の先行的な意志こそが、わたしたちが享受する「恵みと平和」の揺るぎない土台となっています。

そして、その御心に従って、イエスさまは「御自身をわたしたちの罪のために献げ」ました。自らを犠牲として差し出すことは、筆舌に尽くしがたい苦しみを自ら背負うことを意味します。わたしたちが神から離れ、罪の中でさまようとき、イエスさまは十字架の上でその罪の報いをすべて引き受けます。このイエスさまの徹底した自己献身こそが、神と人間との間にあった深い溝を埋め、真の平和を打ち立てる唯一の手段となった事実に、パウロは強い確信を置いています。

3. 「この悪の世」の正体を読み解く

さて、パウロが用いた「この悪の世から救い出そうとして」という表現について、深く掘り下げましょう。わたしたちは「悪の世」と聞くと、どのような光景を連想するでしょうか。テレビやインターネットを騒がせる凶悪な事件、権力による腐敗、あるいは道徳的に退廃した不健全な社会のありさまを思い浮かべる方が多いはずです。もちろん、それらも「悪の世」の顕著な一面であることに相違ありません。

しかし、パウロがここで見据えている「悪」の正体は、より根深く、かつ皮肉なものです。パウロ自身が生まれ育ったユダヤ人社会は、決して世俗的で退廃的な世界ではありませんでした。むしろ、神を畏れ、道徳的に厳格であり、清廉潔白を重んじる「清い社会」だったのです。この手紙の受取人であるガラテヤの教会員たちも、律法を厳格に守るべきだと主張するユダヤ主義者たちの影響を強く受けていました。彼らは「正しく生きること」に対して、非常に真面目で熱心だったといえます。

パウロが暴き出したのは、まさにその「敬虔で真面目な正しさ」の裏側に潜む悪の姿でした。非常に宗教的で戒律遵守を求める共同体においてさえ、パウロは「この悪の世」の支配を見て取ったのです。なぜなら、自分たちの「正しさ」を誇り、それを基準に他者を裁き、排斥し合うところにこそ、人間を支配する罪の最も恐ろしい形が露呈するからです。

4. エデンの物語に見る「関係の破れ」

聖書において「悪」とは、神との関係、および人との関係における致命的な「破れ」を指します。これを理解するために、パウロも念頭に置いていたであろうエデンの園の物語を振り返ってみましょう。

園の中央には、神がそこから取って食べるなと命じられた善悪の知識の木がありました。しかし、人間はそこから取って食べてしまいました。その直後、神が近づいたとき、人は神の顔を避けて木の間に隠れました。ここに、神と人との平和に満ちた関係の破綻が見て取れます。もはやそこには、隠し立てのない信頼関係は存在しません。

さらに、この破れは人と人との関係にも波及します。神に問われた男は、自らの過ちを認める代わりにこう答えました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3章12)。これは責任転嫁であり、他者への攻撃です。自分を「正しい側」に置き、相手を「悪い側」に仕立て上げる。そのような自己正当化と裁き合いが始まった瞬間、エデンの園(平和の園)は失われました。

これこそが、パウロが指摘する「今の世」の実態です。神を避け、他者を裁き、自分自身の正義という殻に閉じこもる。たとえそれが宗教的にどれほど熱心な姿であっても、そこに「平和」がないのであれば、それは「この悪の世」の一部に他なりません。パウロは、この自己中心的な「正しさ」の迷宮から人間を救い出すことこそが、福音の目的であると説いているのです。

5. イエスさまの苦しみと和解の希望

パウロが語る「わたしたちの罪」という言葉は、原文では複数形で書かれています。これは単なる個別の不道徳な行為のみならず、わたしたちの心に巣食う敵意、妬み、憎しみ、中傷、怠慢、傲慢、そして「自分たちは絶対に正しい」という独善的な主張など、数知れない「諸々の罪」を指し示しています。

これらの罪を清算するために、そして絶望的な分断からわたしたちを救い出すために、イエスさまは自ら苦しみを負われました。十字架の上で死ぬことをさえ善しとされ、罪の贖いの犠牲となったのです。この御子の苦しみが、神とわたしたちの間に再び橋を架け、平和を打ち立てました。そして、ここで忘れてはならないのは、独り子を犠牲にした父なる神ご自身の痛みです。パウロが神を「わたしたちの父」と呼ぶとき、そこにはわが子の苦しみを通してまでわたしたちを愛し、救おうとされた神の深い慈しみへの感銘が込められています。

神によって平和を与えられた者は、赦された者として互いに赦し合う新しい生活へと招かれます。人と人との和解は、多くの場合、自らのプライドを捨て、苦しみを引き受けるプロセスを伴うものでしょう。しかし、イエスさまの犠牲を仰ぎ見るとき、そこには確かな和解の力が働き、わたしたちには他者を赦す勇気を与えられます。神との平和を基盤として、人と人との間にも、新しい平和が生み出されていくのです。

6. おわりに:救いの味わい、信仰生活の歩み

もちろん、この救いが完全に完成するのは、主イエスさまが再び来る「来るべき世」においてです。わたしたちが生きる「今の世」には、依然として悪の影響が色濃く残っており、苦しみや葛藤が絶えることはありません。しかし、パウロは強調します。「今の世」からの救いは、イエスさまによって既に始まっているのだ、と。

信仰生活とは、この「既に始まっている救い」を日々味わい、体験していくプロセスに他なりません。わたしたちが今、神の言葉を耳にし、共に集っているのは、この恵みと平和に与かるためです。神が望んでくださり、イエスさまが献身されたことによって得られたこの「平和」は、わたしたちのいかなる努力によっても手に入れることのできない、完全なる賜物(プレゼント)、「恵み」です。

わたしたちは、自分の正しさに固執する生き方を脱ぎ捨て、神の豊かな赦しのうちに憩いましょう。そして、神との平和、隣人との平和を大切に携え、神の愛という確かな光の中を、力強く歩み続けていこうではありませんか。これこそが、ガラテヤの信徒、そして現代を生きるわたしたちすべてに向けられた、パウロからの最も力強い福音のメッセージなのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。罪深い問題を抱えた私たちを見捨てず、問題を解決するために御子をこの世に送り、十字架で責任を負ってくださったことを感謝します。主イエスさまが今も私たちと関わり続けていることを信じる信仰をお与えください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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