マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。
次回予定: 7月12日

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。
次回予定: 7月16日

主日礼拝後の読書会について、開催を第3日曜日のみに変更いたします。会員主導で30分程度、課題図書はひきつづき三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。
次回予定: 7月19日
16「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
17『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。/葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11章は、当時のユダヤ社会が抱えていた深刻な閉塞感と、それに対するイエス・キリストの独特の応答が、冷徹なまでの厳しさと、それ以上に溢れ出る慈愛をもって鮮やかに描かれた箇所です。神の知恵が私たちの常識と正面から衝突するその「逆説」と、私たちが背負うべき「軛(くびき)」の真の意味を、読み解いていきましょう。
16節から19節で、イエスさまは当時の人々を「広場に座って仲間を呼ぶ子供たち」に見立てて、対照的な比喩で表現します。「笛を吹いても踊らず、哀歌を歌っても泣かない」。これは、洗礼者ヨハネの禁欲的で厳格な悔い改めの勧めと、イエスさまの罪人と食事を共にする自由で親密な招きと、どちらも自分の思い通りではないと憤って受け入れない、人々の頑なな心を指しています。
ここでイエスさまは「知恵の正しさは、その働きによって証明される」
(19)と言っていますが、この「知恵」は「受肉した神の言葉」そのもの、すなわちイエス・キリストを指します。神が世界を救うために選んだこの「知恵」の道は、人間の予測や期待とは常にかけ離れます。
人間は得てして、自分の物差しに合わない神の振る舞いを「正しくない」と断罪しようとします。しかしルターによれば、神の知恵は常に人間の傲慢を砕く形で現れます。知恵とは「論じること」ではなく、神が今ここで何を行っているかという不条理な現実の中に飛び込み、それを受け入れる力に他なりません。
25節でイエスさまは「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」
と感謝の祈りを捧げます。
19節の知恵が「神の救いという事実」であるのに対し、この25節で否定されている「知恵ある者や賢い者」の知恵は、人間が自らの知識や律法の遵守によって神を管理・把握できると信じる「自己過信の知恵」です。二つの知恵は全く異なる意味で使われ、イエスさまはこの二つを鋭く対比させています。
また「これらのこと」とは、イエスさまが罪人や徴税人と食卓を囲み、奇跡を行い、弱い者を招く姿を通じて明らかにされている、「神の支配(神の国)」の到来の現実を指しています。
では、なぜ「知恵ある者や賢い者」(当時の律法学者や宗教的指導者たち)は排除されるのでしょうか。それは、彼らには「自分たちこそが神の基準を完璧に理解している」、と頑なに思い込んでいるからです。神の恵みは、自分の功績や知識の積み上げによって手にする「権利」ではなく、ただ受け取る「贈り物」です。「賢い」者は、その贈り物を必要とせずに、あるいは自分の基準に合わないとして否定して、払いのけてしまいます。だからこそ、自分の無知と無力を認め、ただ信頼する「幼子のような者」
にのみ、神の真実は顕現するのです。
27節の「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」
という箇所は、しばしば「選別による排除」だ、と誤解されます。しかし、これは排他的な選別ではありません。
神の慈悲は万人に向かって開かれています。しかし、神を知るための「唯一の道」として、イエスという門が置かれました。父なる神を知るには、イエスという一人の人間を通して示される神の愛を、疑わずに信じ抜くしかありません。
「知恵ある者」は、このあまりに単純で卑近なイエスという門を通ろうとしません。彼らは自分の知的・道徳的な階段を自力で登りきろうとするあまり、最も低いところに備えられた救いの扉を無視して通り過ぎてしまうのです。つまり、意図的に排除されるのではなく、彼ら自身のプライドが、彼らを救いの道から閉め出すのです。
自らの賢さを脱ぎ捨て、子の差し出す手を取る者には、父なる神の愛がすべて開かれます。これは、傲慢さという殻を破らなければ到底たどり着けない、救いの真理なのです。
さて、この27節までの厳しい宣言と、28節から始まる「疲れた者、重荷を負う者はだれでも来なさい」
という優しい招きはどう関係するのでしょうか。
一見、断絶しているようですが、実は密接につながっています。27節までで、人は「自分の力で神に近づこうとする不可能な試み」という重荷を背負っていることが暴露されました。これは、マタイ23章4節で、「彼ら
(律法学者たちやファリサイ派の人々)は背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」
、といわれている重荷です。律法を完璧に守り、清く正しい人間であれ、という社会的な重圧と自己嫌悪。その「重荷」を背負い続けたままでは、人は必ず魂が摩耗して潰れます。
28節からの招きは、その重荷を下ろして、代わりにイエスさまの背負う軛を受けるようにという誘いです。
ローマの信徒への手紙の3章20節に「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」
とあります。ルターが最も重要視した、人間の行いの限界を説く箇所です。重荷を下ろすことは単なる「消極的な手放し」ではなく、「神の国を受け入れるための積極的で不可欠なプロセス」です。その理由は、私たち人間が背負っている「自分の力で神に近づこうとする重荷」そのものが、実は神の恵みを遮断する壁になっているからです。
したがって、重荷を下ろすことは、「自分という檻(おり)から脱出して、神の広大な恵みを受け入れる準備をする」という、極めて能動的な意志決定です。これは「自分の行いによる義」を捨て、「キリストによる義」にすがりつく行為です。
つまり、重荷を下ろすことは「諦め」ではなく、「自分の人生の主導権を、神に完全にお返しする」という信仰の決断、福音的で前向きな行動なのです。
しかし、「進んで重荷を下ろすべき」と言える最大の理由は、イエス・キリストが「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」
(30)と言ったからです。
では、なぜ軛を負うことが安らぎになるのでしょうか。軛が軽いからです。古代、牛に軛を負わせる際、経験のある年長の牛と若い牛を並べてつなぎました。イエスさまは、私たちが人生という畑を耕すとき、隣に並んで軛を共に背負う、その年長の牛となってくださるのです。私たちが人生という畑を耕すとき、イエスさまが隣に並んで軛を一緒に背負い、半分以上の重さを支えてくださるのです。
私たちが独りで背負っていたのは「神に認められるための自己努力」や「自己正当化」という、耐え難い重荷でした。しかし、イエスさまが差し出すのは、神の愛を信じ、共に歩むという「信頼」と「服従」の軛です。古い重荷を下ろし、新たな軛でキリストという相方と共に歩むとき、重い人生の課題も軽く感じられます。
私たちは、自分が賢くなることで安らぎを得るのではなく、賢さを捨てて、イエスさまの隣に並ぶことでのみ、真の安息を得るのです。この逆説的な安らぎこそが、福音の核心に他なりません。
この「荷を下ろす」という行為は、一度きりの出来事ではなく、毎日毎朝の祈りの中で繰り返される信仰の練習のようなものかもしれません。あなたの現在の生活の中で、少しだけ自分の賢さを脇に置いて、イエスさまの隣に歩み寄ってみる勇気を持つ。それは、驚くほど軽い一歩になるはずです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは私たちと軛を一つにし、共に歩んでくださっています。私たちはこの恵みに感謝しつつ、一つくびきを負って歩むとき、イエスさまの愛と恵みと真実をより深く学ぶことができますようお導きください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。