マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。
次回: 6月18日

主日礼拝の後、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。
出張予定日: 7月12日
9:35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
10:1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。 2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
きょうの福音はまず、イエスさまが見た「群衆」をこう記します。《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て・・・》
(9章36)。
「弱り果て、打ちひしがれている」とは、単に体力が落ちているとか、少し落ち込んでいるという個人的な不調を示すものではありません。当時のユダヤ社会の、非常に深刻な病巣の指摘です。
宗教指導者たち、つまりファリサイ派や律法学者たちは、本来なら民を導く「羊飼い」であるはずでした。しかし彼らは、民衆に守りきれないほどの細かな律法の規定を課し、それができない人々を「罪人」として見捨て、社会の枠組みから排除していたのです。ですから、ここから読み取るべきは、群衆が「誰からも顧みられず、宗教的・社会的に搾取され、霊的にも肉体的にも完全に疲れ果て、倒れ込んで立ち上がれない状態」であったということです。
そのような群衆を見て、イエスさまは《深く憐れまれた》
(36)。この「憐れむ」という言葉は、「内臓、はらわた」を語源とする動詞です。「はらわたがちぎれるほどに痛む」、「胸が締め付けられるほどに共感する」という意味です。
つまり、イエスさまの憐れみは、高みから「かわいそうに」と見下ろすような同情ではありません。群衆の痛みを、ご自分の痛みとして体ごと引き受けられるほどの、激しく、深い愛の衝動です。イエスさまにとって、人々が「羊飼いのない羊」のように、どこへ向かうべきか分からず、魂が疲れ果てている状況は、座視できない痛みだったのです。この「はらわたが痛むほどの憐れみ」こそが、イエスさまのすべての宣教活動・いやし・十字架へと向かう歩みの原動力でした。
続いて、イエスさまは《収穫は多いが、働き手が少ない》
(37)と言いました。
これは、「救われるべき人はたくさんいるのに、教師が足りないから、このままでは救いきれない」という、人間の側の人手不足や嘆きに焦点を当てた言葉ではありません。ここでの「収穫」とは、終わりの日に神が人々を救いへと集めてくださる「神の絶対的な救いの業」を指しています。つまり、「救いの恵みの時はすでに満ちており、神による豊かな実りが目の前に広がっている」という、圧倒的な神の恵みの「豊かさ」がまず宣言されているのです。
問題は、その神の豊かな救いの業を、人々に告げ知らせ、分かち合う「働き手」が追いついていないという点にあります。ルターはこの箇所に触れ、「福音が純粋に説かれないことこそが飢饉である」といった趣旨のことを述べています。
イエスさまが《働き手を送ってくださるように収穫の主に願いなさい》
(38)と言ったのは、人間の努力で教師を育成せよということではなく、神の豊かな収穫の業に、ふさわしい働き手を神ご自身が送り出してくださるよう、神への信頼と祈りを求めているのです。
10章に入ると、イエスさまが十二人の弟子を選び、《汚れた霊に対する権能をお授けになった》
(10章1)とあります。
注目すべきは、彼らが「エリート」だから遣わされたのではないという点です。弟子のリストを見ると、漁師や徴税人など、当時の社会ではごく普通、あるいは疎まれていた人々が含まれています。大切なのは、彼ら自身の能力ではなく、授けられた「イエスさまの権能」と「語るべきメッセージ」なのです。
ここで、イエスさまご自身の権能と、弟子たちの権能を比較してみましょう。
イエスさまの持つ権能は、ご自身が神の子であり、メシア(救い主)であるという「神性そのものに由来する根源的な権能」です。イエスさまはご自身の権能によって悪霊を追い出し、病をいやしました。
一方、弟子たちの権能は、彼ら自身が修行して身につけた能力でも、生まれ持った才能でもありません。すべてはイエスさまから「委託された権能」です。
この違いには、非常に重要な意味があります。弟子たちが悪霊を追い払い、病をいやしたとき、人々は弟子たちを崇めたのではなく、彼らの背後におられる「イエス・キリストの権威と神の国」を見たのです。弟子たちの権能とは、彼ら自身を輝かせるためのものではなく、イエスさまの救いの御業をそのまま中継し、現すための「パイプ」のような役割を持っていたのです。
イエスさまは弟子たちを送り出す際、《ただで受けたのだから、ただで与えなさい》
(8)と命じました。しかし、その直後の10節には《働く者が食べ物を受けるのは当然である》
と書かれています。一見すると矛盾しているように思えるかもしれません。しかし、ここには美しい神の国の秩序が示されています。
まず、「ただで与えなさい」とは、「福音(神の救いの恵み)を商品にしてはならない、見返りを求めるビジネスにしてはならない」という意味です。弟子たちが授かった権能も、神の国のメッセージも、すべて神から無償(ただ)で与えられた恵みです。ですから、それを人々に伝えるときにも、代金を請求したり、自分の利益にしたりしてはならないという教えです。
では、なぜ「食べ物を受けるのは当然」なのでしょうか。それは、福音を伝えるためにすべてを投げ出して働く弟子たちの生活は、彼らが自分で稼ぐのではなく、「福音を受け入れた教会や人々を通してもたらされる、神の養いによって支えられるべきだ」という意味だからです。
ルターはこの点について、御言葉を説く説教者が生活の心配をせずに宣教に専念できるよう、教会が彼らを支えるのは当然の義務であると同時に、説教者の側は決して富を貪ってはならないとバランス良く教えています。つまり、福音は「ただ(無料)」ですが、それを運ぶメッセンジャーの生活は「神と共同体によって保障される」という、愛の循環を言っているのです。
最後に、現代の大きな問いについて考えましょう。今の教会の牧師や信徒たちは、当時の弟子たちのように《病人をいやし、死者を生き返らせ・・・》
(7)といった奇跡を、同じような形で行うことは多くありません。これは、現代の教会には「いやし」の権能がないということではなく、キリストの福音が世界に確立された現代に、派手な奇跡が繰り返される必要はなくなったということでしょう。
現代の教会における最大の「いやしとよみがえり」とは、「罪によって霊的に死んでいた人間が、キリストの言葉によって赦され、新しく生き返ること」、そして「絶望し、打ちひしがれていた人が、神の愛によって慰められ、立ち上がること」です。これこそが、肉体のいやし以上の、本質的で永遠の奇跡です。
奇跡的な現象だけを追い求めていては本質を見失います。キリストの言葉によって魂が救われ、新しくされるという「究極のいやし」の権能を、現代の教会も確かに預かっているのです。
イエスさまは今も、傷つき、打ちひしがれている現代の群衆を、はらわたがちぎれるほどの憐れみをもって見つめています。そして、その収穫の現場へと、私たちを「働き手」として送り出そうとしています。
私たちは無力ですが、預かっているイエスさまの権能と、ただで受けた豊かな恵みがあります。日々の生活の中で、出会う人々にこの神の愛を「ただで分かち合っていく」歩みへと、私たちも一歩を踏み出していきましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子イエスさまを通して、すべての人々に対する「深い憐れみ」を表してくださったことに感謝いたします。御子イエスさまの愛の御心に倣って歩むことができますよう、私たちを養い導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。