マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。
次回: 5月21日

主日礼拝の後、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。
出張予定日: 7月12日
15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
きょうの箇所は、イエスさまが十字架にかかる直前、弟子たちに残した「最後の説教」の一部です。別れを目前にした緊迫感と、残される者への深い慈しみが交錯する御言葉です。
まず、15節の「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」
という言葉について考えてみましょう。
人間の社会では「愛しているなら〇〇して」という言葉は、しばしば相手をコントロールするための武器、つまり「愛を人質に取った取引」として使われます。親が子供に、あるいは恋人同士が、自分の要求を通すための「踏み絵」として愛を利用する。これは、相手の自由を奪い、服従を強いる行為です。
しかし、ここでイエスさまが語っている「愛」と「掟」の関係は、それとは根本的に構造が異なります。
イエスさまの言う「愛しているならば」は、条件ではなく「結果」についての記述です。例えば、「もしあなたがその歌手のファンなら、自然とその歌を口ずさんでしまうよね」と言うとき、それは強制ではなく、内側から溢れ出る情熱の自然な現れを指しています。イエスさまは、「私を愛するということは、私の言葉があなたの生きる指針(掟)になるということである」と、愛の結果として起こる変化を語っているのです。
人間的な強要は「私のためにあなたを削れ」という搾取ですが、イエスさまの招きは「私の愛の中に留まることで、あなた自身が新しくなるように」という解放です。ここには、相手を支配しようとするエゴではなく、愛し合う二人が同じ方向を向いて歩き出すような、深い信頼の原動力があるのです。
では、イエスさまが「守れ」と言った「わたしの掟」とは一体何を指すのでしょうか。
ヨハネ福音書を読み進めていくと、イエスさまは「掟」という言葉を使うとき、旧約聖書の膨大な律法の箇条書きとしては語っていないことがわかります。では何を指すのか、その答えは、少し前の13章34節に明示されています。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これがわたしの新しい掟である」。
つまり、「わたしの掟」とは、特定の宗教的な儀礼や禁止事項を守ることではありません。イエスさまが弟子たちの足を洗い、やがて命を捨てるほどの愛を示した、その「自己犠牲的な愛」を自分たちの生き方の中心に据えることです。
「掟を守る」とは、無理を押して義務を果たすことではなく、イエスさまの愛に浸され、その愛の温度を他者に伝えていくという生き方の、創造力そのものを指しているのです。
次に、17節の「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」
という言葉に注目しましょう。
これはヨハネ1章10節から11節の「言(ことば)は世にあったが、世は言を認めなかった」
というテーマの、見事な語り直しです。ヨハネ福音書全体を貫くのは、「光が闇に来たが、闇は光を理解しなかった」という、神と世界の決定的なすれ違いのドラマです。
1章では「言(イエスさま)」が拒絶されました。そして14章では、イエスさまの代わりに送られる「真理の霊(聖霊)」が拒絶されると予告されています。
なぜ世は、これらを受け入れられないのでしょうか。それは、世が「目に見えるもの、計算できるもの、自分の支配下に置けるもの」だけを真実だと信じているからです。聖霊は風のように、どこから来てどこへ行くのか目には見えません。自分の損得勘定や理論で制御できないものを、世は「存在しないもの」として切り捨ててしまいます。
しかし、イエスさまはここで対比を描きます。世は知らないが、あなたがた(弟子たち)は知っている、と。なぜなら、その霊はあなたがたと共にあり、あなたがたの内に留まるからです。1章で拒絶された「光」を受け入れた人々には、今度は「内側に留まる霊」という、より親密で、より確かな共助者が与えられるのです。これは、かつて「外側」にいた神が、私たちの「内側」へと住まいを移すという、壮大な救いの完成を意味しています。
さて、この箇所で極めて重要な概念が「弁護者(パラクレートス)」です。
16節でイエスさまは「別の弁護者」
を遣わすと約束します。「パラクレートス」というギリシア語は、直訳すると「傍らに呼ばれた者」という意味です。裁判の際、心細い被告の隣に座って、一緒に戦い、弁護し、励ましてくれる存在。それが聖霊です。
イエスさまは18節で「あなたがたをみなしごにはしておかない」
と言いました。当時の社会で孤児になるということは、保護者を失い、法的な権利も生存の保障も失う、最も無防備な状態を意味しました。弟子たちは、イエスさまがいなくなることで、自分たちが精神的・霊的な孤児になるのではないかと怯えていました。
それに対し、イエスさまは「私は去っていくが、目に見えない形でもっと近くに行く」と告げます。肉体を持ったイエスさまは、一度に一箇所にしかいられませんが、霊としてのイエスさま(弁護者)は、時空を超えて、信じる者一人ひとりの内に同時に存在できるからです。
この「目に見えない臨在」こそが、キリスト教信仰の核心です。私たちは独りで世の荒波に立ち向かうのではなく、常に「傍らに呼ばれた弁護者」と共に人生の法廷に立っているのです。
最後に、20節と21節に記された、驚くべき「合一」の約束について触れておきましょう。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」
。
ここには、父なる神、子なるイエスさま、そして人間である私たちが、愛によって一つに溶け合うような神秘的な関係が描かれています。これは、単に「神を信じる」という概念を超えて、生命の根源的なつながりを指しています。
そして21節の最後には、「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」
という約束があります。「現す(エマニゾー)」とは、秘密にされていたものが公にされる、あるいは、はっきりと目に見える形になることを意味します。
私たちがイエスさまの愛に応え、その掟(互いに愛し合うこと)を生きようとするとき、イエスさまは概念的な存在ではなく、私たちの具体的な生活の中で「生きた実体」としてその姿を現してくださいます。困難の中でふと感じる平安、他者の優しさの中に垣間見える慈しみ、絶望の淵で見つかる希望。それらすべてが、イエスさまが「自身を現してくださっている」瞬間なのです。
きょうの箇所は、単なる道徳的な教訓ではありません。肉体的な別れを越えて、愛によって神と人間が永遠に結ばれるための「新しい関係の宣言」です。
「私を愛しているなら」という言葉は、私たちを縛る鎖ではなく、私たちが神の無限の愛に既に招き入れられていることを確認するための、優しい合言葉です。
世がどれほど冷淡で、目に見えない価値を否定したとしても、私たちの内には「弁護者」が共にいます。私たちは孤児ではありません。私たちは、神の愛という大きな循環の中に組み込まれた、かけがえのない存在なのです。
この約束を胸に、今日という一日を、隣人と愛を分かち合う歩みへと踏み出していきましょう。イエスさまは、今もあなたの傍らで、あなたと共に歩んでおられるのですから。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御国に戻った御子の代わりに、別の弁護者として聖霊を遣わし、私たちを慰め、励ましてくださいます。その愛に応え、互いに愛し合う者として共に成長できるよう教会の交わりを育ててください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン