杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

記事の補完について

更新停止していた時期の説教を掲載しました。

イエス 荒れ野で誘惑を受ける

1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

1. 神の子が受ける誘惑とは

洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスさまは、人々の前に出て神の国の福音を宣べ伝え始める前に、悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれました。

「誘惑」とは、「人を迷わせて、悪い道にさそいこむこと。相手の心を引きつけて、自分の思いどおりにすること」です。悪魔は、ふだんは活発に活動しているようには見えませんが、ひとたび私たちが神の言葉に真剣に従っていこうとすると、起き上がってきます。そして、私たちの信仰をくじこうとするのです。イエスさまもそのような誘惑を受けたのでしょう。

2. 断食と空腹

イエスさまが導かれた場所は、荒れ野です。荒れ野とは、水の枯れた土地で、雨もほとんど降らないので、草も木もあまり生えていませんし、人も住んでいない、何もない場所です。そのままでは生きて行くことのできない場所です。

イエスさまはそこで40日間の断食をしました。聖書の断食とは、心を集中して神に祈ることを言います。40日間も断食をしたというのは、それほど真剣な祈りであったことを意味しています。何を祈ったかは書かれていません。おそらく、世の中に出る前に、神の御心を求めて祈られたのだと思います。

40日間の断食というのは人間の限界に近いそうです。栄養が欠乏するため、肉体にも脳にもダメージが来るのです。イエスさまは、荒涼とした荒れ野でただ一人、その断食をしたのです。

するとイエスさまは、空腹を覚えたと書かれています。それはまさに私たちとまったく同じ人間であり、食べるために労苦することを知っていると言うことです。

3. 悪魔の誘惑

そこに「誘惑する者」がやってきました。これは悪魔のことです。人間が父なる神に信頼することから引き離そうとする。神を信じないように誘う。それがここの「誘惑する者」です。使徒パウロはコリントの信徒への第二の手紙11章14節で、「サタンでさえ光の天使を装う」と書いています。ですから、最初はそれが悪魔なのか天使なのかさえも分からない。いかにも親切そうに近づいてくるのです。もちろん、姿は見えないけれども、言葉で語りかけてきます。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と。悪魔はイエスさまが神の子であると知っているのです。

悪魔の言ったことは、もっともなことに思われます。人の子であるイエスさまは、40日間の断食をして空腹となり、肉体的限界に直面しています。荒れ野ですから、何もない。しかし石ならゴロゴロしています。そしてイエスさまは神の子ですから、石をパンに変えることぐらいできるでしょう。だったら目の前に転がっている石をパンに変えて食べれば良いではないですか。

しかしそこには、微妙な問題があります。イエスさまをこの場所に導いた父なる神は、それを望んでいるか、ということです。石をパンに変えればよいという悪魔の誘いは、父なる神の判断を尋ねるまでもなく、神の子として自分の判断でせよということだと思います。

そしてもしここで、悪魔の言うとおり石をパンに変えて飢えをしのいだとします。すると万事がそのような調子でいくことになるでしょう。「あのとき石をパンに変えたのだから」と、またお腹が空けば石をパンに変えて食べる。喉が渇いたといって、木や石から水を湧き出させる。新しい服がほしいといって、枯れ葉を服に変えて着る。それは果たして、私たちと同じ人間になったと言えるでしょうか。

またご自分のために石をパンに変えたのであれば、人々のためにも石をパンに変えることとなるでしょう。石をパンに変えるということは、そのように、民衆にパンを与える救い主として歩むことに他なりません。人々に、食べ物を提供し、着る物を提供し、住まいを提供する。しかし、それで人間が救われたと言えるでしょうか。それで人間が神を信じたことになるでしょうか。

4. 人はパンだけで生きるものではない

悪魔の提案に対して、イエスさまは答えました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(4)

イエスさまは、「と書いてある」と言いました。それは旧約聖書の申命記8章3節です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

申命記のこの言葉は、昔、イスラエルの人々がやはり荒涼とした荒れ野で40年間もさまよったときに語られました。水も食べ物もない荒れ野で生きるイスラエルの人々に向かって、モーセは、今まで主があなた方を飢え死にしないように守ってくださったではないか、と思い出させるのです。食べるものがない荒野でマナという食べ物を降らせてくださったではないか。岩から水を出してくださり、着物はすり切れず、足ははれなかったではないか、と人々に神の恵みを思い出させているのです。

神の言葉に従ったとき、神は私たちに必要なものは与えてくださる。そのことを教えるための試練です。まず神の言葉に従うことが第一である。そうすれば、神は必要な助けを与えてくださる。マナという食べ物を不思議にも与え続けてくださったではないか。ぜいたくはできなくても、生きることができるようにしてくださった。まず、神に信頼せよという、神への深い信頼を求める言葉なのです。

5. 神への信頼

イエスさまの答えはすなわち、40日間の断食という極限にあっても石をパンに変えることをせず、父なる神にゆだね、信頼するということでした。自分の不安や焦りのままに行動するのではなく、この荒れ野に導かれた父なる神に自分の行く末をゆだねたのです。

これは、パン、食べ物、この世の物質的なものを人々に提供する救い主として歩むのではないということです。イエスさまは、人間の根本的なところから救う、究極の救いのために歩む御方です。それはつまり、私たち一人ひとりをまったく救う道を歩むことをこの極限の最中で選択したということでもあります。

石をパンに変えることをせず、私たちを本当の意味で生かし、また必要なものをも与えることのできる神に信頼して生きる道を選ぶ。それは、イエスさまが私たちと共に神に信頼して歩んでいく道を歩まれるということです。ここに救いの道があります。

6. 退け、サタン

イエスさまは、悪魔の誘惑に対して「退け、サタン」(10)と命じました。悪魔に対する断固たる決別です。究極の二者択一に対して、迷うまでもなく、悪魔ではなく父なる神を拝み、信頼することを宣言したのです。そして十字架への道を歩みます。それは困難な道でした。しかし神と共に歩む道でした。そしてこの道を歩む道程に、神の奇跡が現れてくるのです。

もし私たちに不平不満が満ちているなら、私たちの信仰のありかたに問題があります。自分の思い通りにならないことから不平不満が生まれます。しかし、私たちの幸福がどこにあるのかを考えてみなければなりません。すべて思い通りになることが私たちの幸福でしょうか。いいえ。父なる神の御心がなるところに幸福があります。それゆえイエスさまは「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るよう教え、私たちは日々、祈り願っているのです。

父なる神が、独り子なるイエスさまを私たちにくださるほどに、私たちを愛している。その神に信頼して、歩んでいく。そこに神の働きが現れてきます。

祈りましょう。天の父なる神さま。罪を贖う御子の十字架に躓かないように、御子は弟子たちに変容した姿、モーセとエリヤと語り合う姿を啓示してくださいました。私たちが聖められる、救われるという希望を持って世を歩めますように。救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

続きを読む


QRコード