マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、飯能ルーテル教会の責任教職も兼務しており、奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張します。そのため、当日の杉並教会の礼拝式は、信徒のみで守ります。
飯能教会の都合により、3月8日に予定していた出張を2月8日に変更します。
13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
イエスさまは私たちに、「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である」
(13節以下)と語りかけています。「塩」は生活に必要不可欠です。塩分の摂り過ぎは体に悪いですが、塩なしに人は生きていけません。また塩は物が腐るのを防ぎます。「あなたがたは地の塩である」とは、この世に良い味をつけ、またこの社会の腐敗や堕落を防ぐ、欠かせない働きを、あなたがたがしている、ということです。「あなたがたは世の光である」とは、文字通り、あなたがたが光としてこの世を明るく照らしているということです。イエスさまは私たちに、あなたがたはこの世になくてはならない塩であり光だ、と語りかけているのです。
イエスさまは、「地の塩や世の光になれるように努力しなさい」ではなく、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言っています。
イエスさまはこの宣言に続いて、塩が塩気を失ってしまうことがあってはならない、光が升の下に置かれて隠されてしまってはならない、とも語っています。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」
(13)。これは、塩になるために努力しなさいという教えではありません。私たちが塩であることを前提とした、塩である者がその味と性質を失うことへの警告です。15節の「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」
という言葉も同じです。ともし火になれと求められているのではありません。ともし火は既にともっているのです。問題はその置き場です。升の下に置かれたともし火は、その役目を果たせません。ともし火は燭台の上に置かれるべきです。そこであれば人々を照らせるのです。つまりイエスさまは、16節にあるように「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」
と言っているのです。14節後半の「山の上にある町は、隠れることができない」
という言葉も同様です。世の光であるあなたがたは山の上にある町のようなものだ、山の上の町はどこからでも見える。そのようにあなたがたも、光である自分を隠しておくことはできない。その光を世に示し、世を照らさなければならない、ということです。このようにイエスさまは、あなたがたは地の塩、世の光なのだから、塩としての、光としての働きをしっかりと世に示しなさい、と言っているのです。
もちろん私たちはそれを目指して努力します。多くの人々が教会に来て、イエスさまを信じて喜びと感謝の生活を送るようになるために伝道します。社会の腐敗、不正が正されることを求めて声を上げるのも大事です。けれども、そういうことができれば、地の塩、世の光だと言えるが、それができていなければ、地の塩、世の光とは言えないのでしょうか。
イエスさまがここで「あなたがたは地の塩、世の光である」と語りかけた弟子たちやイエスさまの周りに集まって来ていた人々は、そのような意味で地の塩、世の光だったでしょうか。いいえ、彼らは力強く伝道して多くの人々を信者にすることも、社会の不正を正すこともできていません。イエスさまは、彼らのこの世における目覚ましい働きぶりを見て、「あなたがたは地の塩、世の光だ」と賞賛したわけではないのです。
実のところ、弟子たちの言葉と行いは人々に喜ばれ、受け入れられ、よい感化を周囲に及ぼしていません。先週の箇所で、10節から12節の、イエスさまが語った八つの「幸いの言葉」の最後は、「義のために迫害される人々」
の幸いでした。迫害されるとは、11節にあったように「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」
ことです。迫害される人々に対してイエスさまは「あなたがたは幸いである」
と言ったのです。つまり、地の塩、世の光である人々は、イエスさまに従っているためにののしられ、迫害され、悪口を浴びせられる人々なのです。あなたがたのおかげでこの社会に良い味がついている、この世が明るくなっている、と周囲の人々に認められ感謝されることはまったくありません。むしろ、社会の害悪として排斥されるのです。そのような状況の信仰者に対してイエスさまは、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と言ったのです。ですから私たちは、「地の塩、世の光」についてのイメージを改めなければなりません。イエスさまは、周囲が「さすがにあの人は信仰者だ、やっぱり信仰のある人は違う」と尊敬し、影響や感化を受ける、立派な人々を指して地の塩、世の光と言ったのではないのです。
しかし16節には「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」
とあります。ここまで述べてきたこととの矛盾を感じるかもしれません。では、もしも私たちが立派な行いをして、さすがにあの人はクリスチャンだ、と尊敬され、周囲が感化されたとしましょう。それで人々が、「あなたがたの天の父をあがめるようになる」でしょうか。私たち自身がほめられ、尊敬されることしか起こり得ません。イエスさまの求める本当に地の塩、世の光である生き方とは、それによって人々が「あなたがたの天の父をあがめるようになる」生き方です。私たちが褒め称えられるのではなくて、天の父なる神こそがあがめられるような生き方です。そのような、本当に地の塩、世の光である生き方というのはどうしたらできるでしょうか。
話は少し戻ります。イエスさまは、人々に尊敬されるような立派な行いをしている人に対してではなく、イエスさまを信じて従っているがゆえに人々にののしられ、迫害されている人々に、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と宣言しました。この宣言は、先週に聴いた「幸いの言葉」と通じるものです。3節から12節に語られた「幸いの言葉」は、幸いを得るための手段ではなく、「このような人々は幸いである」というイエスさまの宣言でした。ただしそれは、この世の尺度で測ると決して幸いではないものでした。先ほど見た「義のために迫害される」こともその一つです。イエスさまは、イエスさまを信じて、その信仰のゆえに迫害、ののしりや悪口を受ける人々に対して「あなたがたは幸いである」、「あなたがたは地の塩、世の光である」と宣言しました。つまり、地の塩、世の光として生きるとはどういうことかを知るためには、幸いの教えをふりかえる必要があるのです。そこに語られた幸いに生きる人が、すなわち地の塩、世の光なのです。
イエスさまはこれらの八つの幸いを私たちに与えようとしています。これらの幸いに生きることこそが、地の塩、世の光として生きることです。それは、立派なことを行うことではなく、私たちがそれぞれの日々の生活の中で、イエス・キリストの十字架の死と復活による神の救いに支えられて、心の貧しい者として、悲しむ者として、柔和な者として、義に飢え渇く者として、憐れみ深い者として、心の清い者として、平和を実現する者として、義のために迫害される者として生きることです。このように生きることこそ、私たちが人々の前に輝かすべき光です。人々の前に示せと言われている立派な行いとは、この八つの幸いに生きることなのです。そしてこれらはどれも、決して私たちの栄光や誉れにはなりません。これらの幸いは、人に誇ったりできるようなものではないからです。しかし私たちがイエスさまによって、これらの幸いにあずかって生きるなら、そこには、天の父なる神によって、驚くべき光が輝かされていくのです。そして、人々が、この幸いに生きている私たちを見て、私たちをではなく、天の父なる神をあがめるようになるのです。
イエスさまこそまことの地の塩、世の光です。このまことの地の塩によって味つけられ、まことの世の光に照らされることで、私たちも地の塩、世の光となるのです。生れつきの私たちは、神の前で、何の役にも立たない無益な者でした。その私たちのために十字架にかかって死に、復活したまことの地の塩、まことの世の光であるイエス・キリストの恵みによって私たちは新しく生かされ、地の塩、世の光とされるのです。イエス・キリストの十字架と復活によって与えられたこの塩味を、光を、失うことなく歩んでいきたいものです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子の恵みによって地の塩、世の光として用いられる光栄に感謝します。塩気を失わず、光を隠すことなく歩み続けることができるよう、たえず御言葉と聖霊によって導いてください。救いイエスさま・キリストの御名によって祈ります。アーメン
(与えられた箇所は13~20節ですが、今回の説教は13~16節の御言葉に焦点を絞りました)