杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

読書会について

主日礼拝の後、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

夕礼拝について

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。

次回: 5月21日

牧師不在の礼拝式について

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。

出張予定日: 5月10日

主は私の羊飼い

1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

1. はじめに:闇の夜と「囲い」の正体

きょうの箇所は、「良い羊飼い」というイエスさまの自己啓示の導入部です。ここには、孤独な魂を震わせる「呼びかけ」と、私たちが無意識に安住している「檻」の正体、そしてそれを打ち破る圧倒的な愛の物語が記されています。

物語の舞台は、夜の帳がおりた羊の囲いです。当時の文脈では、「囲い」はユダヤ教という既存の宗教的枠組み、あるいはイスラエルの民という共同体を指します。しかし、これを現代の私たちの人生に当てはめたとき、それは「安全ではあるが、出口のない場所」の象徴となります。私たち羊は例外なく、何らかの「囲い」の中に生きています。

「囲い」とは、一つに、社会の防壁です。安定した職、世間体、組織のルール。それらは私たちを外部の敵から守る「囲い」ですが、同時に一歩も外に出られない閉塞感を生みます。

二つに、自己の牢獄です。「どうせ自分はここまでだ」という諦念、過去の失敗という名の鎖、あるいは「人からどう見られるか」という虚栄心。多くの事柄が、心理的に自分を拘束する檻となります。

三つに、死という究極の壁です。人間である以上逃れられない、有限性という名の囲い。これには、自分の限界としての弱さも含まれます。

2. 忍び寄る「盗人」と、静かに立つ「門」

私たちはこれらの囲いの中で、いつの間にか「これが世界のすべてだ」と思い込み、狭い空を見上げて呼吸をしています。しかし、その静寂を破って近づく足音があります。1節でイエスさまが警告した、盗人や強盗です。門を通らず、柵を乗り越えてくる彼らの存在は、私たちにとっての脅威です。

7節の「わたしより前に来た者」、盗人(陰湿な欺瞞者)と強盗(暴威の権勢者)とは、当時の民を霊的に支配し、自分たちの権威を維持するために律法を武器として振りかざしていたファリサイ派の人々や律法学者、宗教的指導者たちです。

この箇所は、直前の9章にある「生まれつき目の見えない人を癒した奇跡」と密接に関係しています。イエスさまは、奇跡を目の当たりにしながらも、盲人を排斥した宗教指導者たちを批判し、真の指導者(羊飼い)とは誰であるかを示そうとしているのです。

彼らはどのように羊を「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたり」(10)するのでしょうか。

まず、彼らは、民(羊)の熱意を盗み取ります。真の羊飼いであるイエスさまは、羊のために命を捨てますが、盗人である彼らは、「羊のために自分がある」のではなく「自分のために羊がいる」と考えます。彼らにとって民は、自らの敬虔さを誇示するための道具であり、宗教的権威を支えるための「数」に過ぎません。

次に、彼らは民の魂を屠ります。彼らは、神との愛の絆であったはずの「律法」を、がんじがらめの「規則の束」に変え、細かな規則(安息日の歩数、手の洗い方など)を何百と作り上げました。その重圧で民の魂の呼吸が止まります。

さらに、民を共同体である群れから引き離し、孤独な死に追いやります。彼らは「自分たちは正しい、自分たちは清い」という選民意識のもと、病人、貧しい者、徴税人などを、「神に見捨てられた者」として共同体から徹底的に排除しました。神の愛を「条件付き」のものに変え、人々の魂を神から遠ざけ、絶望という名の闇に葬り去ったのです。

この構図は、現代のわたしたちの周りにも、形を変えて存在します。成果を出さなければ価値がないと急き立てる成果主義の論理。こうあるべきという正義を振りかざして他者を裁く不寛容な視線。それらはすべて、わたしたちの魂を少しずつ屠り、滅ぼしていく「盗人の声」です。

しかし、その対極に立つのが、「門」であるイエスさまです。主は正面から、堂々と、あなたの人生の入り口に立ちます。あなたの意思を尊重し、あなたが門を開くのを、あるいは主という門を通るのを待っているのです。

3. 「名を呼ぶ」――魂が震える邂逅

3節の「自分の羊の名を呼んで連れ出す」という描写は、全聖書の中でも最もドラマチックで、最も個人的関係である愛が爆発する箇所です。

羊にとって、その名は単なる個体識別の記号ではありません。それは、自分の「すべて」が知られているという証しです。

中東の羊飼いは、羊たちがかつてどこで怪我をしたか、どの草が嫌いか、何に怯えるかを知り尽くしています。群れ全体をひとまとめに扱うのではなく、それぞれの羊に「茶色い耳」「勇敢な者」といった特徴に基づいた名をつけ、一頭一頭と深い信頼関係を築きます。名を呼ばれた瞬間、羊は「私は、その他大勢の一人ではない。このお方にとって、唯一無二の存在なのだ」という深い喜びに包まれます。彼は存在の全肯定を受けたのです。イエスさまが「名を呼ぶ」ということは、「あなたを、他の誰でもないあなたとして完全に知っている」という宣言です。イエスさまの側から圧倒的な個人的関係が結ばれていることの確認です。

主人の声に共鳴し心がふるえる限り、どんなに暗い夜も、どんなに険しい谷も、羊にとってもはや恐怖の対象ではありません。それは、「この声に従えば、危険から守られる」という信頼、自分の安全の確信です。名を呼ばれることは、孤独や不安からの永遠の決別を意味するのです。

そして、羊には自由への期待が芽生えます。名を呼ばれることは、狭い囲いから広い牧草地へと連れ出される「解放」の合図だからです

4. 「連れ出す」という名の救い

羊飼いは名を呼んだ後、羊を囲いの外へ「連れ出し」ます。イエスさまは、居心地は良いが停滞している「古い囲い(価値観、罪、恐れ)」から、あえて私たちを外へと呼んで連れ出します。囲いの外は、確かに危険かもしれません。しかし、そこには主が用意した「豊かな牧草地」が広がっています。

10節は、この箇所の結論であり、イエスさまのミッションステートメント(使命宣言)です。「盗人」は、羊の命を自分の利益のために奪います。しかし、イエスさまは逆に自分の命を捨ててまで、羊に命を与えます。ここで語られる「命を豊かに受ける」(10)とは、単に延命することでも、贅沢をすることでもありません。それは、「魂が本来の輝きを取り戻し、溢れんばかりの躍動感をもって生きる」ことです。

囲い(限界)を突破し、神という無限の広がりの中で呼吸すること。昨日までの自分を縛っていた柵を飛び越え、主人の背中を追って未知なる荒野へ踏み出す勇気。それが、イエスさまがご自分の命と引き換えに私たちに与えようとした「豊かさ」の正体です。

その豊かさは、迷いからの解放です。どの方角へ歩むべきかを知ったことで得られる平安です。神との断絶が解消され愛されている実感を伴って生きる、絆の回復も意味します。囲いを超え終わりのない希望を見つめる、永遠の視点が与えられることでもあるのです。

5. 結び:あなたを呼ぶ声に耳を澄まして

今、この瞬間も、真の羊飼いであるイエスさまは、門のところであなたの名を呼んでいます。その声は、あなたを無理やり引きずり出すものではなく、あなたがその声を聞き分け、自らの足で歩き出すのを待つ、慈愛に満ちた声です。

あなたが自分自身を「名もなき群れの一人」だと思い込み、絶望という「囲い」の中でうずくまっていたとしても、主はあなたの固有の名前を、優しく、しかし力強く呼んでいます。イエスさまが望んでいるのは、あなたが囲いの中に留まり続けることではなく、門を通って外の豊かな牧草地へ導き出されることです。

その声に応え、イエスご自身である「門」をくぐり抜けるとき、あなたの人生を囲っていた壁は崩れ去ります。「私を知っている人がいる。私を愛している人がいる。だから、私は自由だ」。その確信こそが、羊が名を呼ばれて跳ね上がるほどに喜ぶ、最大の理由なのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子を世の罪を取り除く神の小羊として、また羊のために命を捨てる良い羊飼いとして世に遣わしてくださったことに感謝します。豊かな命を受けられるよう、私たちを御言葉と聖霊によって養ってください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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