杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

イエス 栄光の姿に変わる

1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

1. 信仰の告白と受難予告の後に

きょうの箇所は「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」と始まります。「六日の後」とあるのは、この六日前に記憶すべき出来事があったからです。直前の16章で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(15)と問いかけました。そしてペトロが弟子たちを代表して答え、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16)と信仰を言い表しました。そのとき初めて、イエスさまは御自分がエルサレムに行って多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する、と受難を予告したのです。しかし、ペトロはそれを理解できずにイエスさまに「主よ、とんでもないことです」(22)と言って諌めました。イエスさまは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(23)と厳しく叱りました。そして「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24)と言ったのです。イエスさまが歩む道は十字架の苦しみと死への道です。したがって、イエスさまは弟子たちと信仰者たちに、その歩みが十字架を背負う苦しみの歩みになることを覚えつつ従うように注意を促したのです。

2. 光輝くイエス

きょうの箇所はそのようなペトロの信仰の告白、イエスさまの受難の予告に続く出来事です。「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(1-2)。イエスさまの「栄光の姿」、イエスさまの本当の姿が開示されたのです。このイエスさまの姿を見たのは、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子のみでした。この三人は、この後の26章で、イエスさまが「ゲッセマネの祈り」に伴った三人でもあります。イエスさまの光り輝く栄光を見た三人は、同じイエスさまの苦しみの姿をも見たのです。ここにイエスさまの神の子としての栄光と十字架の苦しみとは切り離すことができない関係にあることが表されています。弟子は信仰の告白をし、そしてイエスさまは受難の予告をしました。イエスさまの本当の姿は十字架の上から世に示されるのです。

3. 旧約聖書を引き継いで

イエスさまの姿が弟子たちの目の前で変わったとき、モーセとエリヤが現れました。モーセは出エジプトの指導者であり、イスラエルの民に神の律法を伝えた人です。エリヤとは預言者の代表です。モーセとエリヤとは旧約聖書を代表する人物です。そして、その二人とイエスさまが語り合っていたとあります。そして、ペトロの提案が4節に記されています。そしてペトロが話しているうちに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5)という声が雲の中から聞こえました。これは神の声です。神御自身によって、イエスさまこそ私の子だ、と宣言されました。

4. ここに留まることはできない

栄光のイエスさまを目撃したペトロは「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(4)と言いました。喜び溢れたペトロは続けて「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言いました。ペトロは小屋を建てて、イエスさまとモーセとエリヤがそこに留まることを願ったのです。しかし、それは、イエスさまの栄光を自分の所有物にしょうとする思いでもあります。そこに神の声が響きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。弟子と信仰者には、御子イエスさまのみ言葉を「聞くこと」が求められます。

5. 恐れるな

そして、6節に、「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」とあります。光り輝く雲の中から、神のみ声が響きました。弟子たちは神の前にひれ伏し、非常に恐れました。しかし、イエスさまは近づいて、彼らに手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」と言われました。これこそが、イエスさまが栄光の姿を弟子たちに見せてくださる目的です。イエスさまの栄光をかいま見ることによって、彼らが力づけられ、恐れずに、信仰者としてしっかりと立ち続けていくことができるように。神の子としての栄光に輝く方であるイエスさまが、常に共にいて、手を触れて支えていることを知って歩むことができるように。これがイエスさまの願いであり愛なのです。

6. 限定の沈黙命令

イエスさまは更に続けて「今見たことをだれにも話してはならない」と言います。しかしこの沈黙の命令は「人の子が死者の中から復活するまで」という限定つきの命令でした。イエスさまが復活した後は、このことを大いに語り、人々に伝えてよいのです。それは、イエスさまの復活があってこそ、その栄光は正しく、誤解なく受け止められ得るからです。イエスさまの栄光は、十字架の苦しみと死とを経て実現する復活の栄光です。イエスさまは私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けられました。そのお方が復活して生きて、私たちと共におられる。これがイエスさまの栄光なのです。三人の弟子たちは、イエスさまの復活において明らかにされる栄光を、前もって、見ることを許されたということです。

7. 礼拝より出て行き

私たちの礼拝はイエスさまの復活の記念日である、日曜日に守られます。礼拝とは、復活のイエスさまが、御言葉というかたちで歩み寄り、み手を触れて、「起きなさい、恐れることはない」と語りかけてくださるひとときです。私たちは礼拝において、イエス・キリストの、罪と死に対する勝利の栄光を、弟子たちと同様にかいま見ることが許されています。神の恵みの支配がイエスさまを通して実現していることを示されるのです。9節に「一同が山を下りる」とあります。山を下りていく弟子たちの姿は、この礼拝から日々の生活へと歩み出していく私たちの姿でもあります。三人の弟子たちが、この山の上で、イエスさまの栄光の姿を一時かいま見て、そして山を下ってきたように、私たちも、主の日の礼拝において、イエスさまの復活の栄光を示され、そしてその礼拝から日々の生活へと歩み出すのです。

高い山の上での体験は、弟子たちにとって特別な体験でした。そこから下るとは、この地上における日常の世界に戻ることです。私たちにとって、主の日の礼拝は、それと同じように非日常の時、一週間の中の特別な時です。

また、弟子たちが向かう日常の世界の現実とは、イエスさまを救い主と認めない世界です。山の上で示された、イエスさまの神の子としての栄光、救い主であることは、この日常の世界においては、隠されているのです。弟子たちはそのような、神の栄光が隠されている世界へと下りていくのです。私たちも、この礼拝という山の上から、そういう日常の世界へと歩み出します。

8. 神の恵みのしるし

繰り返しになりますが、弟子たちや私たちが遣わされている日常の生活では、イエスさまが神の子、救い主であることが隠されています。けれども、イエスさまこそ栄光に輝く神の子であることは、あの山の上で、礼拝で、しっかりと示されました。私たちが信仰者として生きるというのは、一つにはもちろん、主の日の礼拝を守って生きることです。礼拝という、日常の場を離れた山の上で、私たちはイエス・キリストの復活の栄光に触れ、そのイエスさまがみ手を差し伸べて私たちに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と語りかけてくださるのを聞くことです。しかしその礼拝を守ることだけが、信仰を持って生きることではありません。私たちはこの山の上から、礼拝から、日々の、日常の生活へと下っていくのです。そこで私たちは信仰者として生きるのです。神が、一人ひとりの生活の中にすでに神の恵みのしるしを与えていてくださるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。罪を贖う御子の十字架に躓かないように、御子は弟子たちに変容した姿、モーセとエリヤと語り合う姿を啓示してくださいました。私たちが聖められる希望を持って世を歩めますように。救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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