杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

不幸は罪の結果か

1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

1. すべては「主イエスのまなざし」に始まる

ヨハネによる福音書には、イエスさまの七つの奇跡が「しるし」として記されています。きょうの箇所はその六番目、「生まれつき目の見えない人を癒し、見えるようにした」という出来事です。

物語は、仮庵祭にエルサレムに上られたイエスさまが、エルサレムの街中で生まれつき目の見えない人が道端に座っているのを見かけたことから始まります。「見かけられた」(1)とありますが、これは単に視界に入ったという意味ではありません。イエスさまは、道端で物乞いをして生きるしかなかったその人の前で、その人生の前で、その苦しみと嘆きの前で、立ち止まって、はっきりと意識を向け、彼を見つめられたのです。

このイエスさまの強いまなざしがあったからこそ、弟子たちの「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」(2)という問いが引き出されました。救いの業は、常に人間の問いや願いに先んじて、イエスさまが私たちを「見つめること」から動き出すのです。

2. 「罪の因果」という残酷なレッテル

弟子たちの問いには、当時の社会に深く根ざしていた考え方が反映されています。それは、「病気や障害は、本人あるいは親が犯した罪に対する神の罰である」という因果応報の論理です。

現代の私たちは、科学的・医学的な知識で、病気と道徳的な罪を切り離して考えます。とはいえ、いざ自分や愛する人が予期せぬ困難や不条理に見舞われたとき、私たちは理屈とは別に「どうして自分がこんな目に」「何か悪いことをしたのだろうか」という問いに支配されてしまいがちです。

これは「人生の不条理」に対する悲痛な叫びです。原因が分かれば納得できる、理由があれば耐えられる。そう信じたい私たちは、たとえ自分を責める結果になったとしても、苦しみに「理由」を求めてしまう脆さを持っています。

3. イエスさまの宣言:原因論から目的論への転換

この重苦しい問いに対し、イエスさまは断固とした否定をもって答えました。「本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3)。この言葉は、二つの重要な真理を提示しています。

第一に、「不幸や障害は罪の報いではない」ということです。イエスさまは、苦しんでいる人をさらに追い詰めるような当時の宗教的・社会的な偏見を完全に打ち砕きました。

第二に、イエスさまは私たちの視線を、「過去(原因)」から「将来(目的)」へと、真逆に転向させるということです。私たちは「なぜ」という過去の原因を問い、暗闇に沈みます。しかしイエスさまは、「何のために」という、これから神がなそうとされている救いのみ業へと、私たちの目を向けさせます。

4. 「神の業」とは何か

私たちは、「神の業が現れるため」という言葉を誤解してはなりません。「神の栄光を示すために、あえてこの人を盲目にした」という意味ではないのです。

4節以降を読むと、イエスさまは「父なる神から遣わされた者の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と語り、すぐさま癒しの業に取りかかります。つまり、ここで言う「神の業」は、盲目という状態の治癒そのものではなく、「その苦しみの中にある人を救い、癒し、新しく生かすイエスさまの働き」を指しています。

イエスさまは、不条理な苦しみの原因を解明する哲学者としてではなく、その苦しみから人を引き上げる救い主として、そこに立っています。「なぜこうなったのか」と後ろ向きに問うことをやめ、「今、ここで神がどのように私を助けてくださるのか」を信じて前を向くこと。それこそが、苦しみに対するキリスト教的な正しい対処法なのです。

5. 泥とシロアム:無価値なものが恵みの道具となる

癒しのプロセスも象徴的です。イエスさまは地面に唾をして土をこね、その泥を彼の目に塗り、「シロアムの池」に行って洗うように命じました。

聖書において土(ここでは泥)は人間の脆さや、価値のないものの象徴です。けれども、イエスさまの手が加わることで、それは癒しの道具へと変わります。また、「遣わされた者」という意味を持つシロアムの池は、神から遣わされた独り子、主イエス・キリストご自身を指し示しています。

この癒しは、癒される本人の努力や資格によるものではありません。ただ、イエスさまという「遣わされた者」の言葉に従い、その恵みに身を委ねたときに起きた奇跡なのです。

6. 別人のように変えられる人生

癒された彼が戻ってきたとき、周囲の人々は驚愕しました。「あの物乞いをしていた男か?」「いや、似ているが別人だ」と議論が起こるほどに、彼は変貌を遂げていたのです。これは単に視力が回復したという身体的な変化に留まりません。暗闇の中で疎外され、物乞いとして生きていた一人の人間が、神の業によって尊厳を取り戻し、全く新しい人生を歩み始めたことを意味しています。

神の業が私たちの人生に現れるとき、私たちは「別人のように」新しくされます。抱えている苦しみの状況そのものが劇的に消え去る場合もあれば、苦しみはそのままでも、それを受け止める私たちの内面が根底から作り変えられる場合もあります。どちらにせよ、イエスさまによる神の業は、私たちを古い絶望から解放し、新しい命へと生かすのです。

7. 「わたしたち」に託された神の業

イエスさまは興味深いことに、「わたしたちは‥‥神の業を行わねばならない」(4)と言っています。「わたし(イエス)」一人ではなく、弟子たち、すなわち現代を生きる私たち信仰者をも、この救いの業に招き入れているのです。

「まだ日のあるうちに」という言葉には、切迫感が込められています。イエスさまが十字架にかかる「夜」が来る前に、そして私たちが人生という限られた時間を生きている内に、今この瞬間に、神の愛を証ししなさい、という招きです。

私たちは自分自身の力で人を救うことはできません。しかし、イエスさまが私たちを「見つめた」ように、私たちも周囲の苦しんでいる人に目を向け、立ち止まることはできます。私たちがその人々のために祈り、寄り添うとき、そこにはイエスさまの光が差し込み、神の救いのみ業が分かち合われていくのです。

8. 主のまなざしに応えて生きる

この物語の核心は、「不条理な苦しみの中にある人を、イエスさまは決して見捨てない」という事実にあります。

弟子たちはこの見えない人を「議論の対象(罪の結果か否か)」として見ましたが、イエスさまは彼を「愛と救いの対象」として見つめました。このイエスさまの温かいまなざしこそが、私たちの絶望を希望へと変える出発点です。

「なぜ私だけが」という問いの暗闇に沈みそうなとき、思い出してください。イエスさまは今、あなたの人生に立ち止まり、あなたを見つめています。そして、あなたの人生を通して、必ず神の素晴らしい業を現そうとしているのです。

「神の業がこの人に現れるため」。この約束を信じ、過去への後悔や原因探しから解き放たれて、今日という日を「神の業が現れる場」として、新しく歩み始めましょう。イエスさまの救いの光は、どんなに深い闇をも照らし出し、私たちをまったく新しい存在へと作り変えるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは言葉と行いで神の無償の愛と赦しの恵みを世に示してくださいました。聖霊によって私たちの心を開き、イエスさまの導きのもとで世を歩む者としてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

(この説教の範囲は、1-12節に限定しました)

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