杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

読書会について

日曜日の礼拝後に、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

次回: 4月19日  「マタイによる福音書」の章内、「愛する人から贈られた聖書」から「取税人マタイの人間像」まで

夕礼拝について

今年度より、毎月第3木曜日に夕礼拝を行うことになりました。開式時刻は19時です。『ガラテヤの信徒への手紙』を読み進める予定です。

初回: 4月16日

牧師不在の礼拝式について

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(高野牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。

出張予定日: 5月10日

聖霊を受けなさい

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

はじめに:新しい創造の朝、「第八日」の招き

聖書は、イエスさまが弟子たちに現れた日を「週の初めの日」(19)、そして「八日の後」(26)と記述します。ユダヤの伝統において、神による天地創造は七日間で完成しました。したがって「八日目」とは、この世界の時間の枠組みを超えた、「新しい創造」の始まりを意味します。

私たちは毎週、日曜日に礼拝を守ります。それは、この世の苦しみや限界に支配された「七日間のサイクル」から一歩踏み出し、キリストの復活によって始まった「新しい世界(第八日)」の空気を吸い込むために集まっているのです。きょうの箇所は、その「第八日」に何が起こるのかを鮮明に描き出しています。

1. 「見ないで信じる」ことの真意:傷跡というリアリティ

復活したイエスさまがトマスに放った言葉、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29)は、「理屈を言わずに盲信せよ」という意味に誤解されがちです。しかし、文脈を辿れば全く異なる景色が見えてきます。

トマスは他の弟子たちが「主を見た」(24)と喜ぶ中で、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25)と頑なに拒みました。一見、彼は科学的な証拠を求めているようですが、その動機はもっと泥臭く、痛切なものです。

トマスの脳裏にあったのは、無残に処刑されたイエスさまの「負のリアリティ」でした。彼はイエスさまと共に死ぬ覚悟を口にするほど(11章16)、真面目で情熱的でした。自分が見捨てて逃げてしまったという罪悪感と、イエスさまが惨めに殺されたという絶望的な事実を、安易な「復活のニュース」で上書きすることを拒んだのです。彼にとって、イエスさまの「傷」こそが唯一の真実でした。

イエスさまはそんなトマスの前に現れ、あえて「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27)と、彼の要求を丸ごと受け入れます。ここで重要なのは、イエスさまが「証拠」を見せて論破したことではありません。トマスの孤独な絶望と罪の記憶に、自らが先回りして寄り添ったという事実です。

「見ないのに信じる」(29)とは、目に見える証拠に依存する段階を卒業し、「復活の主が、今の私の苦しみや罪の中に共におられる」という霊的な実在(リアリティ)に信頼を置くことです。復活の主は、過去の歴史上の人物ではなく、今も「傷跡」を持ちながら私たちと共に歩む「わたしの主、わたしの神」(28)なのです。

2. 「信じる」ことと「聖霊を受ける」ことの関係

21節から23節にかけて、イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言い、彼らを世に遣わします。ここに「信じること」と「聖霊を受けること」の密接な関係が示されています。

聖霊は、閉ざされた戸を内側から開く力です。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけてい」(19)ました。これは物理的な部屋だけでなく、彼らの心の状態そのものです。失敗、挫折、恐怖。彼らは自らの力でその戸を開けることはできませんでした。

「信じる」とは、私たちが自分の努力で「信じよう」と踏ん張ることではありません。むしろ、鍵をかけて閉じこもっている私たちの心の「真ん中」に、イエスさまが招くより先に入ってこられるのを受け入れることです。

そして、イエスさまは彼らに「息を吹きかけて」(22)聖霊を与えました。これは創世記における「人への命の吹き込み」を想起させます。聖霊を受けるとは、復活の主の命が自分の中に流れ込み、新しい人間として「再創造」されることです。使命は赦しから始まります。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23)。

この驚くべき権威の授与は、聖霊と信仰が単なる個人的な「安心」に留まらないことを示しています。「信じる」とは、自分がイエスさまによって無条件に赦された(平和を与えられた)ことを知ることです。そして「聖霊を受ける」とは、その赦しの連鎖を、鍵のかかった外の世界へと広げていく原動力を得ることです。「信じること」と「聖霊を受けること」とは、復活の主との出会いにおいて分かちがたく結びついているのです。

3. 「信じたいのに信じきれない」私たちへ

現代を生きる私たちは、しばしばトマスのような心境に陥ります。「奇跡なんてあるはずがない」、「自分はイエスさまを裏切るような生き方しかできていない」、「こんなに苦しい世の中で、神の平和などどこにあるのか」。この聖書の箇所は、そんな「信じきれない」私たちに三つの福音を告げています。

一つめは、復活の主は「鍵のかかった部屋」に入ってこられるということです。私たちが「信じられない」という疑いの鍵をどれほど固く閉ざしていても、復活の主はその壁を通り抜けてやってこられます。信仰は私たちの「納得」から始まるのではなく、イエスさまの「訪問」から始まります。あなたがどれほど心を閉ざしていても、イエスさまはすでにあなたの「真ん中」に立っておられるのです。

二つめは、「傷跡」こそが、私たちとイエスさまを繋ぐ場所であるということです。トマスが釘跡にこだわったように、私たちも自分の人生の「傷」や「欠け」を恥じ、隠そうとします。しかし、復活の主は、栄光に輝く傷一つない姿で現れたのではなく、十字架の傷をそのまま残した姿で現れました。これは、イエスさまが私たちの痛みや失敗を「なかったこと」にするのではなく、それらを丸ごと抱えて、新しい命へと変えるお方であることを意味します。あなたの信じきれない思い、消えない罪悪感こそが、実は復活の主と深く出会うための「接点(釘跡)」なのです。

三つめは、「平和があるように」という執拗なまでの愛です。イエスさまは三度も繰り返して「あなたがたに平和があるように」(19,21,26)と語りかけます。それは、私たちがそれほどまでに平和を失いやすく、疑いやすい存在であることを知っておられるからです。

「信じきれない」ことは、信仰の拒絶ではありません。むしろ、イエスさまの「平和」という言葉を繰り返し必要としている、切実な渇きの現れです。イエスさまはあなたの疑いを叱り飛ばすのではなく、あなたが平安を得るまで何度でも、同じ言葉をかけ続けてくださいます。

結び:第八日の光の中へ

ヨハネによる福音書は、この記述を「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(31)という言葉で締めくくっています。

「信じる」とは、頭の中で正しい答えを導き出すことではなく、復活の主との生きた関係の中に身を置くことです。私たちはトマスのように、泥臭い疑いを持ったままで良いのです。その疑いを抱えて「第八日(主の日)」の集まりに加わるとき、目には見えなくとも確かにそこにおられるイエスさまが、あなたの心の内側で「平和があるように」と息を吹きかけてくださいます。鍵をかけた部屋から一歩外へ踏み出す力は、あなたの決意ではなく、あなたを愛してやまないイエスさまの招きの中にあるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子の十字架と復活をとおして、私たちに対するあなたの深く大きな愛を知りました。これを喜ぶとともに、深く感謝いたします。私たちをもトマスのようにはっきりと信仰を生きる者としてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

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