杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

夕礼拝について

今年度より、毎月第2木曜日に夕礼拝を行うことになりました。開式時刻は19時です。

『ガラテヤの信徒への手紙』を読み進める予定です。

牧師不在の礼拝式について

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(高野牧師)は、来年度本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。

出張予定日: 5月10日

十字架につけられた王

19:16そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

こうして、彼らはイエスを引き取った。17イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。18そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。19ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。20イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。21ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。22しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

23兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。24そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

1.究極の自発性:十字架を背負う王と「私たち」

ヨハネ福音書が描く受難の場面は、他の福音書とは異なります。イエスさまは誰の助けも借りず、自ら積極的に十字架を背負い、ゴルゴタへと歩を進めます。他の福音書ではキレネ人シモンがその重荷を肩代わりしますが、ヨハネは、イエスさまが一貫して自らの意志でその道を選び取ったことを強調します。

イエスさまは二人の罪人の間に、あたかも「罪人の親玉」であるかのように配置されました。しかし、この光景こそが十字架の真理を雄弁に物語っています。ひとつは「代償の恵み」です。本来、その中心に立つべきだったのは「私」でした。もうひとつは「共苦の主」を示します。私たちの罪を一身に背負い、罪人と同じ列に並ぶことで、イエスさまは私たちの弱さに徹底的に寄り添いました。

私たちはしばしば「自分の十字架を背負う」という言葉を重苦しい義務として捉えます。しかし、隣りで同じように、否、それ以上の重荷を自発的に背負うイエスさまの存在に気づくとき、その重荷は「恵み」へと変質します。イエスさまとの接点は、この「本来の居場所の交換」を認めることから始まるのです。

2.政治と宗教の皮肉:ピラト、ユダヤ人、そして告知

ところで、十字架の上に掲げられた「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きは、当時の三つの主要言語(ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語)で記されました。これを通して、主を断罪する者たちの関係が浮き彫りになります。

政治的妥協とプライドの板挟みになっているピラトは、無自覚な「預言者」として、主が世界の王であることを全言語で告知しました。主を拒絶し自己保身に走るユダヤ人の指導者は、ローマの権威を利用した結果、自らの霊的主権をもローマに明け渡してしまいました。

ユダヤ人たちは「自称」と書き直すよう要求しましたが、ピラトは「書いたものは、書いたままにしておけ」(22)と拒絶しました。これはピラトのささやかな意趣返しに過ぎなかったかもしれませんが、神の計画においては、イエスさまの王権が世界共通語で公式に宣言される不可逆的なプロセスでした。ピラトやユダヤ人たちの思惑がどうあれ、イエスさまは厳然として「王」であり続けるのです。

3.無関心という罪:兵士たちと「裂かれない下着」

十字架の足元では、兵士たちによるイエスさまの衣の奪い合いという、世俗的な光景が広がっていました。兵士たちにとって、目の前で命を落とそうとしている人物は「救い主」ではなく、単なる「役得(上着)をもたらす対象」に過ぎませんでした。彼らは上着を四つに分けましたが、縫い目のない下着だけは裂かずに、くじ引きで誰のものにするか決めました。「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」(24)。この詩編の成就は、人間の無関心や強欲さえもが神の大きな物語の中に組み込まれていることを示唆します。

四つに分かれた上着は、アウグスティヌスが説いたように、福音が世界の四方に広がっていく象徴です。裂かれない下着は、イエスさまの祈ったとおり「一つ」(17章11)であり続けるべき教会を表しています。

私たちは、十字架を「自分に関係のある救い」として見ているでしょうか。あるいは、兵士たちのように、自分の利益や現世的な関心事(衣の分け前)に目を奪われ、目の前の尊い犠牲に無感動になってはいないでしょうか。

4.新しい家族の誕生:母マリアと愛弟子

十字架の下には、もう一つの対照的な集団がいました。嘆き悲しむ四人の女性と、イエスさまが愛された弟子です。ここでイエスさまが発した言葉は、単なる親孝行の次元を超えた「新しい共同体の創造」を意味しています。

「婦人よ」(26)、カナの婚礼でも用いられたこの呼びかけは、肉親の情を超えた、メシアとしての宣言です。イエスさまは十字架上で、母と弟子を引き合わせ、「見なさい、あなたの子です」(26)、「見なさい、あなたの母です」(27)と執り成しました。

この新たな母子の姿は、教会の原型です。新約学者ブルトマンが指摘したように、ここに「母なるユダヤ人教会」と「子なる異邦人教会」の和解と一致が象徴されています。二人を結びつけたのは、イエスさまの流した血と痛みでした。教会とは、イエスさまの十字架を基点にして、赤の他人が肉親以上の絆で結ばれる場所です。私たちが十字架の主と接するとき、それは同時に「イエスさまのそばに立つ隣人」を神の家族として受け容れることを意味します。

5.渇きと成し遂げられた業:神の小羊の最期

さて、最期が近づいたとき、イエスさまは「渇く」(28)と言いました。これは、極限の肉体的苦痛の表明であると同時に、詩編22編に記された苦難を自ら引き受けるという強い意志の現れでした。

イエスさまの覚えた「渇き」の二面性を通して、私たちはイエスさまが誰なのかを知ります。私たちと同じように喉が渇き、弱さを覚える「真の人間」でした。預言された苦しみを一滴も残さず飲み干すという「真の救い主」としての決意がここに示されました。

差し出されたのは、あざけりの象徴である「酸いぶどう酒」でした。それをヒソプ(過越の儀式で使われる草)の枝で受けられた主の姿は、まさに「世の罪を取り除く神の小羊」(1章29)そのものです。

イエスさまは「すべてが終わった」(30口語訳)と叫びました。これは敗北の宣言ではなく、神の救済計画が完遂されたという勝利の報告です。イエスさまはうなずくかのように頭を垂れ、自ら息を引き取りました。「終わった」とは終焉ではなく完成、神の御計画が「成し遂げられた」(30新共同訳)という歓声です。

6.私たちは十字架の主イエスさまとどう向き合うのか

この聖書箇所が私たちに突きつけるのは、「あなたは十字架の下のどの位置に立っているか」という問いです。「自分の正義と思うもののためにイエスさまを政治的に利用する者」か、「イエスさまの犠牲をよそに、自分の利益(衣服)だけを計算する者」か、それとも「ただ悲しみに暮れ、立ち尽くす者」か。

イエスさまは、このすべての弱さとずるさを、自ら担った十字架とともにゴルゴタの地中深くに埋めてくださいました。私たちが十字架の主イエスさまと接する方法は、ただ一つです。それは、イエスさまが「成し遂げられた」という事実を、自分のためのものとして受け取ることです。

イエスさまの「渇き」によって私たちの魂の渇きは癒やされ、イエスさまが「一つ」とした新しい家族(教会)の中で、私たちはもはや孤独ではありません。イエスさまが頭を垂れて息を引き取られたその瞬間、私たちの古い命もまた終わり、キリストにある新しい命が始まりました。

私たちは今、この「成し遂げられた」恵みの土台の上に立ち、自分に与えられた十字架を、イエスさまと共に喜びをもって背負い直すよう招かれています。

祈りましょう。天の父なる神さま。きょう私たちは御子の十字架の死で、すべてが終わったこと、しかしそこからのみ私たちが新しい命に生きる道が始まることを示されました。あなたが備えてくださった道を歩めますよう導いてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

(礼拝での朗読は短く19章16-30節にしました)

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