マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

主日礼拝の後、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。
次回: 6月18日

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。
出張予定日: 7月12日
9イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
18イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」 19そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。 20すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。 21「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。 22イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。 23イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、 24言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。 25群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。 26このうわさはその地方一帯に広まった。
きょうの福音書には、社会から爪弾きにされた徴税人と、愛する娘を亡くした名士、そして絶望の淵にいた一人の女性が登場します。立場も悩みもまったく違う彼らですが、共通しているのは「イエスさまのまなざしに射貫かれた」ということです。その物語から、現代を生きる私たちがどのようにイエスさまに招かれているのか、聴いていきましょう。
物語は、カファルナウムの収税所に座っていたマタイという男から始まります。
《イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った》
(9)。
当時の徴税人は、占領者ローマのために同胞から税を取り立てる「売国奴」であり、宗教的にも「汚れた罪人」の代名詞でした。誰もが彼を軽蔑し、近寄ろうともしません。しかし、イエスさまは違いました。イエスさまは彼を「見た」のです。この「見る」という言葉は、単に視界に入ったという意味ではなく、彼の魂の孤独と渇きをすべて見抜いた、という意味が含まれています。
私たちは時として、「自分のようなダメな人間が神に愛されるはずがない」と、自分の価値を低く見積もってしまいます。しかし、マタイの召命が教えてくれるのは、イエスさまは私たちの「現在の肩書き」や「過去の過ち」を理由に拒絶されることはないということです。むしろ、彼はその場所に座っているマタイを見つけ、単刀直入に《わたしに従いなさい》
と声をかけました。
マタイの家で行われた食事の席には、多くの徴税人や罪人が集まりました。それを不快に思ったファリサイ派の人々は、弟子たちに《なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか》
(11)と詰め寄ります。それに対するイエスさまの答えこそ、福音の本質です。
《医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》
(12-13)。
ここで「イエスを真に必要とする」とはどういうことかが見えてきます。それは、「自分は霊的な病にかかっており、自力では治せない」と認めることです。
自分が「正しい人」であると思っている間、私たちはイエスさまを必要としません。自分の欠けや罪、弱さに直面し、立ち止まった時、初めてイエスさまという「医者」を求めることができるのです。
さて、場面は変わり、一人の指導者(ヤイロ)が登場します。彼の娘が今、亡くなったのです。そして彼の家に向かう道中で、十二年間も出血が止まらない病に苦しむ女性が、イエスさまの服の裾に触れます。
《わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう》
(18)。
《この方の服に触れさえすれば、治してもらえる》
(21)。
彼らの言葉は非常に力強いものです。しかし、それは決して「迷いのない完璧な信仰」だったわけではないでしょう。指導者は、わらにもすがる思いだったはずです。娘を失った父親として、理屈では「死んだら終わりだ」と分かっていても、目の前のイエスというお方に全存在を賭けてみるしかなかった。女性も同様です。十二年も病に苦しみ、財産を使い果たし、誰からも顧みられない中で、彼女に残されていたのは「服の裾」という、わずかな接点だけでした。
彼らが信じていたのは、「イエスの魔法のような力」というよりは、「イエスというお方の慈しみ」だったのではないでしょうか。「この方なら、私のこの惨めな状況を放っておかない」という、切実な期待です。イエスさまはその、震えるような、小さく不完全な信頼を「信仰」と呼んでくださるのです。
《イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った』》
(22)。
指導者の家に着くと、人々は娘の死を悼んで泣きわめいていました。イエスさまは言います。《あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ》
(24)。
人々はイエスさまをあざ笑いました。当然です、医学的にも客観的にも、彼女は死んでいたからです。しかし、イエスさまにとって「死」は終わりの壁ではありませんでした。《群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった》
(25)。
この「起き上がる」という言葉は、後にイエスさまご自身の「復活」を指す際にも使われる重要な言葉です。イエスさまが私たちの人生に介入されるとき、そこにあるのは一時的な気休めではなく、根本的な「命の回復」です。
ルターは、死を「眠り」と呼ぶことについて、信徒にとって死はもはや滅びではなく、キリストの御手の中で安らぎ、再び目覚めさせられるプロセスであると強調しました。指導者や女性が見たものは、まさにこの「絶望を希望へと塗り替える神の権威」だったのです。
最後に、大切な問いについて考えましょう。「自分が招かれているのか、どうしたら確信を持てるか」ということです。
もしあなたが、「自分はふさわしくない」と感じているなら、それこそが「招かれている証拠」です。なぜなら、イエスさまは《正しい人を招くためではなく、罪人を招くため》
(13)に来たとはっきり宣言したからです。確信を持つための手がかりは、自分の感情の盛り上がりや、信仰の強さにはありません。むしろ、「イエスさまの言葉が、今の自分に向けられている」と受け止めることにあります。
ルターはこう教えています。「私たちの確信は、自分自身の内側にあるのではなく、自分自身の外側にある神の約束(御言葉)にのみ置かれるべきだ。」
マタイ、病の女性、そして亡くなった娘の父親。彼らに共通しているのは、自分の限界、あるいは自分の罪深さをこれ以上隠せなくなり、「イエスさまを真に必要とした」ことです。そして、「自分が招かれていると確信」するには、自分の心の波を見つめるのではなく、聖書に記された「あなたを招いている」というイエスさまの言葉に、そのまま身を預けることです。
イエスさまは今も、あなたの「収税所」を通りがかり、あなたの「絶望の枕元」に身をかがめています。そして、当時と同じように、「わたしに従いなさい」、「元気になりなさい」、「起き上がりなさい」と呼びかけています。
この慈しみ深いお方のまなざしに、今日、私たちも応えていこうではありませんか。そこから新しい歩みが始まります。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は憐れみの愛の主であって、神の国の外にいると思われていた多くの人々を、ご自身の食事の席に招いてくださいました。私たちをも招いてくださったこと主の憐れみを喜び、心から感謝いたします。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン