杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

直近の礼拝式

集会予定
8月20日(木) 19時00分
夕礼拝
ガラテヤ2章15~20 信仰による義
聖餐あり
8月23日(日) 10時30分
聖霊降臨後第13主日
マタイ16章13~20 岩の上に建つ教会

メンテナンスについて

お知らせ

8月18日火曜日の10時から14時まで、このウェブサイトの置かれているレンタルサーバーのメンテナンスが予定されています。

メンテナンス中は閲覧中に不具合が起こる可能性が高いため、あらかじめお知らせします。

夕礼拝について

お知らせ

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。

次回予定: 8月20日

牧師不在の礼拝式について

お知らせ

杉並聖真ルーテル教会の責任教職は、飯能ルーテル教会の責任教職を兼務しており、奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張します。そのため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。

次回予定: 9月13日

異邦の地の〈信仰〉が拓く境界線

説教

21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

1. 沈黙と叫びの間にあるもの

きょう読む物語は、イエス・キリストの宣教活動における一つの転換点とも言える重要な出来事です。イエスさまは故郷ガリラヤを離れ、「外の世界」へと足を踏み出しました。そこで待っていたのは、病に苦しむ娘を抱えたカナンの女でした。彼女はイエスさまを見つけるやいなや、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22)と叫び声を上げます。しかし、それに対するイエスさまの態度は、私たちが期待するような慈愛に満ちた即答ではありませんでした。イエスさまは一言も答えずに沈黙を通したのです。

2. 異邦の地という「境界」について

現在のレバノン南部に相当する「ティルスとシドン」(21)は、当時のユダヤ人から見れば、まさに異教の巣窟であり、宗教的な境界線の外側に位置する場所でした。この地域は地中海貿易の重要拠点であり、ユダヤ教の律法とは無縁の神々(バアル神など)が祀られ、独自の文化が栄えていました。

ユダヤ人にとって、カナン人という呼称は「神の民に敵対する者」という強烈な先入観を伴う言葉です。かつてイスラエルが約束の地に入った際、神から徹底的に排除せよと命じられた先住民を指す言葉だからです。イエスさまのこの地への訪れは、福音の光がユダヤという狭い領域を突き破り、やがて万民に及ぶものであることを象徴しています。

ですがまだこの冒頭の時点では、人種や宗教的な障壁という、非常に現実的で厚い壁が彼女を阻んでいました。

3. 弟子たちの葛藤と女の粘り強さ

弟子たちは、イエスさまに対して、「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」(23)と願い出ます。彼らが自分で直接追い払わなかったのは、この女が発する熱量がただ事ではなかったからでしょう。彼女は弟子たちの冷たい視線にも、イエスさまの沈黙にも屈することなく、叫び続けました。彼女はイエスさまの言葉を直接聞く権利がない現状を理解しながらも、娘を助けたいという愛と、イエスさまの力に対する確固たる信頼を捨てませんでした。彼女のしつこさこそが、実は信仰の最も本質的な部分、すなわち「諦めない心」であることを、弟子たちは理解できていなかったのです。

4. もうひとつの「パン」の奇跡

ところで、このカナンの女の出来事のすぐ直前に、イエスさまは「五千人の給食」を行っています。イエスさまがユダヤ人の群衆に対して、溢れるほどのパンを与え、十分に満たした場面です。その直後に、この「パン屑」をめぐるカナンの女との対話が配置されていることには、深い意図があります。

イエスさまが女に対して「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26)と語ったとき、それはユダヤ人という「家族」が神の恵み(パン)を独占しているかのような冷徹な論理を提示しています。しかし、その論理は、先週の「五千人の給食」で余ったパンが「十二の籠にいっぱい」になったという事実で覆されます。神の恵みは、決して誰か一人を満足させれば枯渇するような有限のものではありません。余りあるほどの恵みが用意されているからこそ、異邦人である彼女にも、その食卓にあずかる資格があるのだということを、マタイはこの二つの出来事を並べることで無言のうちに語っているのです。

5. 「小犬」という言葉に隠されたイエスさまの眼差し

また、イエスさまが用いた言葉にも配慮が読み取れます。当時のユダヤ人が異邦人を蔑む際、街を徘徊する野良犬を指す「クオン」という言葉を使うのが一般的でした。しかし、「小犬(キュナリオン)」は家庭で飼われている、あるいは食卓のそばにいる、愛玩用の「小さな犬」を指す表現です。これは彼女がどの位置から救いを求めているのかの再定義ともいえます。

彼女はイエスさまが提示した「犬」というレッテルを否定せず、その立場を「主よ、ごもっともです」と受け入れます。その上で、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27)と返しました。「食卓の下にいる存在であっても、主人の食卓から落ちる恵みは共有できるはずだ」という論理です。

6. 弟子たちの変容をめぐる沈黙の教訓

弟子たちが「追い払ってください」と願ったことで露呈したのは、彼らの未熟さです。彼らはまだ「メシアとはユダヤ人を優先的に救い、異邦人をさばく存在であるべきだ」という、当時の選民思想の枠組みに囚われています。

イエスさまが沈黙を貫き、ことさら冷たい言葉を口にしたのは、このカナンの女を試すためだけではなく、むしろ弟子たちの心に深く潜む「選民意識」という名の偏見を浮き彫りにするためでした。自分たちが「神に近い側」にいると信じて疑わない弟子たちの冷淡さと、食卓の下に這いつくばってでも憐れみを乞うカナンの女の熱意。どちらが神の目から見て「近い」存在なのか。イエスさまは沈黙を通じて、弟子たちに信仰の本質を突きつけました。この物語の背後には、私たち現代の読み手が、誰かを「救われるべき対象外」として見ていないか、という厳しい問いかけも含まれているのです。

7. 「あなたの信仰は立派だ」という賞賛の真意

ついにイエスさまは弟子たちへの返答ではなく彼女に直接語りかけ、その信仰を賞賛します。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28)。この賞賛は、彼女が自分の身分を「食卓の下のパン屑を食べる犬」に喩えながらも、なお神の恵みを食卓のパンそのものとして信じた、その謙虚かつ大胆な姿勢です。立派な信仰とは、自分を大きく見せることではなく、神の恵みに対して「私にはそれが必要です」と正直に乞い願う力です。イエスさまは、民族や性別といった外側の境界線を、信仰という内側の真実によって無効化しました。この賞賛は、彼女に対して「あなたは異邦人であるが、もはや神の家族の一員である」という神聖な宣言に他なりません。

8. 「失われた羊」として迎え入れられた存在

つまり、「あなたの願いどおりになるように」という言葉は、娘が癒やされたという出来事の結論ではありません。これは、かつて「イスラエルの失われた羊」として探求されていた神の恵みが、今やその境界線を大きく広げた瞬間です。

このことは、イエスさまの宣教の本質が、選ばれた者たちの救いから、すべての傷ついた魂の救いへと転換したことを示します。彼女は異邦人という異質な存在でありながら、信仰によって、神が本来意図していた「神の民」の輪の中へと完全に招き入れられました。それは、私たちがどれほど遠い場所にいたとしても、神の愛は常に私たちを「本来の居場所」へと帰らせる力を持っていることを示しています。

9. 神の沈黙を信頼の種として

この物語を通して私たちが学ぶべきことは、神の沈黙が拒絶ではないという希望です。イエスさまの沈黙は、女の信仰の深さを引き出し、周囲の者たちに信仰の真の姿を啓示するための準備の時間でした。人生の中で、神の声が聞こえず、祈りが届かないと感じる沈黙の時期が誰にでも訪れます。しかし、カナンの女にとって、その沈黙は決して残酷さではなく、信仰が試され、鍛えられるための場となりました。彼女のように、絶望的な状況にあってもなお「主よ、憐れんでください」と祈り続けることは、私たちを神との親密な関係へと押し上げる力になります。神は、自分の小ささを知り、それでも神の恵みというパンのひとかけらを求めて食卓に這い寄る、その真摯な心を今日も待ち望んでいます。この物語は、今日を生きる私たちの心の中にある「境界線」さえも、イエスさまの愛によって優しく取り払われることを教えているのです。

この物語の結末は、カナンの女の娘が癒やされた奇跡で終わりますが、真の奇跡は「異邦人が神の家族として認められた」という関係性の変容にこそあります。彼女は(そして私たちも)、イエスさまと食事を共にする食卓にたどり着いたのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。イエスさまの愛を信じて、諦めないで祈ることができますことを感謝します。どうか重い沈黙に遭うときも、あなたが共にいて、行き詰まる私たちに、新しい始まりを示してください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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