1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
《イエスはあるところで祈っておられた》
(1)。イエスさまが祈り終えると、弟子の一人が《わたしたちにも祈りを教えてください》
(1)と願いました。弟子たちももちろん毎日祈っていたことでしょう。なぜ「祈りを教えてください」と願ったのでしょうか。それは、イエスさまの祈りを聞いて、自分たちの祈りと明らかに違うものを感じたからでしょう。
前の章に、イエスさまが「喜びにあふれて」祈った(10章21節以下)言葉が記されています。それを読むと、天地の造り主である神を「父」と呼び、神と非常に親密である印象を受けます。それに対して自分たちの祈りは、形ばかりのように思えたに違いありません。それで、イエスさまに祈りを教えてくださいと願ったのでしょう。
イエスさまが天地の造り主である神と、まったく親しく、実の親子のように(実際、実の親子なのですが)祈っている。そして神の力をいただいている。弟子たちはそのような様子を見聞きして、イエスさまのように、神と本当に親しく接したい、もっと神を知りたい、神に近づきたい、という思いを持ったのでしょう。私たちも同じように思うのではないでしょうか。
そこでイエスさまは、《祈るときには、こう言いなさい》
(2)と言って、後に「主の祈り」と呼ばれるようになる祈りを教えました。
最初の《御名が崇められますように》
(2)とは、神が礼拝されますようにということです。次の《御国が来ますように》
(2)は、人々が神を心から信じて、神の支配がこの世に及びますようにという願いです。
これらの祈りは、自分自身の直接の利益に関する願いというよりも、神ご自身の願いです。神が私たちにこうあれと願っていることが「主の祈り」の前半部分であると言えます。
私たちは、まず自分の願いを祈りたいものです。私たちには、いろいろと神にかなえていただきたいことがあります。しかしその前に、神の願いを祈りなさいというのがこの部分です。イエスさまは私たちに対して、まず神の願いを共に祈ることを求めるのです。私たちは神の思いや願いに本当に耳を傾けて聞いているだろうかと思わされます。
神の御名が崇められること、神が礼拝されること、それが神の御心です。当然、口先だけではなく、心から神さまを礼拝する。それが神の御心です。
詩編102編19節に、《後の世代のために、このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』》
、とあります。神が私たち人間を造った理由は、主なる神を賛美するためなのです。賛美とは、礼拝と言い換えても良いでしょう。私たちが世のため人のためになれるのなら、それに越したことはありません。しかしどう頑張っても、そうなれません。そんな自分に値打ちがあるのかと疑います。
しかし聖書は告げます、「主を賛美するために民は創造された」と。主を礼拝し、賛美するために私たちは造られた、命を与えられたのだと。これは大きな慰めであり、励ましです。今私たちが心から主を礼拝したならば、主が私たちを造った目的が果たされているのです。
《父よ、御名が崇められますように》
(2)。この主の祈りの第一の願いは、世界中の人々が神を礼拝するようになることを、神が待っていて、そのために私たちにも祈ってほしいと求めているのです。私たちはたいへん励まされます。この社会の中で、日曜日の午前中に教会に集って神を礼拝する私たちは、まったくの少数派です。けれども、神さまの願いは、この社会の人々すべてが、神を礼拝するようになることです。ですから、私たちは世の中で少数派の変わり者では終わりません。神はすべての人がやがて真実に神を礼拝するようになることを願っており、その初穂として、まず私たちがその礼拝に導かれているのです。
前後しますが、イエスさまは、主の祈りの最初で、神に対して《父よ》
(2)と呼びかけなさいと教えました。天地の造り主である神を「父」と呼んで良いのだと、私たちを認めているのです。
私たちは神に背き、罪を犯し、とても神を父と呼ぶことなどできません。しかし、イエスさまは十字架にかかって、ご自分の命と引き替えにして私たちの罪を赦しました。それゆえに、私たちは神を父と呼べるのです。
私たちは、イエスさまと共に「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈りなさい、と招かれています。イエスさまと共に、神の願いを祈り願うこと自体が、神さまのお役に立っているのです。これを知って、「喜びにあふれて」祈らない理由があるでしょうか。
主の祈りの前半は、神さまのための祈りでした。まず私たち自身のことではなく、神さまの願い、イエスさまの願いを祈る。そうイエスさまは教えられました。私たちがまず神さまの願い、イエスさまの願いを祈るときに、私たち自身の生きる意味が分かってくるということを教えられました。主の祈りの後半は、私たちに直結した、私たち自身のための祈りとなっています。そしてその最初が3節です。
「糧」は、原文では「パン」です。すなわち、ごはん、食べ物です。「必要な」という言葉は、原文では「どうしても必要な」という意味です。ですから、「私たちが生きるために、どうしても必要なパンを毎日与えてください」と父なる神に求めなさい、という意味になります。パン・ごはんを食べなければ、人間は死んでしまいます。イエスさまが、私たちが私たち自身のために祈るときに、「生きていくためにどうしても必要なごはんを毎日与えてください」と祈りなさいと教えているのです。これは言い換えれば、神は私たちが生きることを願っているということです。「生きなさい」、そのための食べ物を神に求めなさい。そして神は、その祈りに応えます。神は、私のような者でも、食べる物を求めて良い、生きることを願って良いと言ってくださるのです。
神は、私たちが生きることを願っています。そしてこの後、私たちを永遠に生かすために、御子イエスさまが十字架にかかることになります。私たちが神さまから愛されていることが、この一行から伝わってきます。
自分に対してなされた他人の過ちを赦すことは、私たちにとって難しいことです。自分が他人に対して犯した過ちは、すぐ忘れます。あるいは気づくことすらないかもしれません。しかし他人が自分に対して犯した過ちを忘れることはありません。それが時には憎しみ・恨みとなって鬱積して、あらゆる物事の不調がその人のせいであると思い込むことさえあります。その結果、自分から喜びを奪い、力を奪い、つまらない人生を歩むこととなってしまいます。
赦すということは、赦しがたい人を赦すということです。その必要性と根拠は、私たちも神の赦しがたい敵であったのに、イエスさまが十字架にかかって、赦しがたい私たちを赦したからです。
誘惑とは、神を信じられなくする悪魔の力です。私たちは自分の力では誘惑に勝つことができません。神を信じ続けることができないのです。ですから、神から引き離そうとする悪魔の力に遭わせることがないよう、父なる神に祈り、助けてもらいなさい、とイエスさまは教えるのです。
最後に、主の祈りを読んでわかることは、イエスさま教えたのは、確実に私たちのためになる祈りだということです。これは、私たちが本当に生き、そして平安のうちに主と共に歩むために必要不可欠な祈りなのです。あらためて主の祈りを毎日味わいながら祈り、歩んでいきましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは御自分と父なる神であるあなたとの親密な交わりの中に私たちを招き入れてくださいました。私たちが聖霊の交わりの中に生きていける恵みを世に証していくことができますように。私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン
(説教は1~4節のルカによる「主の祈り」に絞ります。)