杉並聖真ルーテル教会

人は何によって生きるか

13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

1. 律法の教師との違い

イエスさまのもとに《数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった》(12章1)。すると、群衆の一人が、《先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください》(13)と声をあげました。

この人は、親が死んだあと、兄が遺産を独り占めにして、弟の自分に分けてくれないので、イエスさまに遺産争いの仲裁を頼みました。当時は、長男が遺産のすべてを受け継ぎ、そこから弟たちに分配したのです。また、当時のユダヤ教では、ラビ(律法の教師)に遺産の調停を依頼するのは、普通のことでした。この人は、イエスさまを立派なラビと見て、その権威でもって兄を説得すれば、兄も折れざるを得まいと考えたのでしょう。

ところが、イエスさまはこの頼みを、《だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか》(14)と言って退けます。イエスさまはこの言葉によって、彼にご自分の働きとラビたちの働きとの違いを示そうとしているのです。イエスさまの使命は、律法(法律)によって人々の間のもめ事を調停することではありません。イエスさまは、ご自分を「神の国」を告知するために神から遣わされた者と自覚しているのです。

しかし、イエスさまは、彼の願いを退けてそれでおしまいにしないで、群衆一同に向かって、《どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである》(15)と語りました。これは、兄に遺産を分けてくれるように頼んだこの人が、「貪欲」であると言っているように聞こえます。彼は心外だったでしょう。貪欲なのは兄の方であって、自分はその被害者なのだ。自分の正当な取り分を得たいと願うことが「貪欲」とされるのには納得がいきません。

2. 貪欲とは

イエスさまは15節の前半で、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と教え、後半で、その教えの根拠を、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と語っています。この二つの文のつながりを理解することが、きょうの箇所の中心ポイントとなります。それを理解するための鍵は、イエスさまが「貪欲」という言葉を私たちの使い方よりも一段と深い意味で使っていることに気付くことです。

「貪欲に用心しなさい」という教えを、私たちは普通、自分の正当な取り分以上にあれもこれもと求めることへの戒めと考えます。自分の正当な取り分を求めることは貪欲ではないと思います。ところがイエスさまは、「貪欲に用心しなさい」に続いて、「有り余るほどのものを持っていても、人の命はそれによってどうすることもできないのだ」と言います。「貪欲」を自分の分を越えて欲しがることと考えていたのでは、「人の命はその人が持っているものによってどうすることもできない」こととのつながりが理解できません。イエスさまがここで「貪欲」と言うのは、自分の正当な取り分を越えて欲しがることではなくて、「自分が持っているものによって自分の命を得られる、生きられる」と思っていることなのです。ここがポイントです。

イエスさまは、どんなに豊かな財産を持っていても、その財産によって命を買い取ることはできない、私たちの人生を決定づけるものは財産ではない、と語っています。ここで「財産」とは、金銭だけではなくて、もっと広い意味で使われています。それがあることによって人生が決定づけられると私たちが思うものは、金銭だけでなく、能力や才能も、健康や体力も一種の財産です。それらを有り余るほど持っていたら、順風満帆の人生だろう、と私たちは思います。しかしイエスさまはここで、それらのものを有り余るほど持っていても、それによって人の命、人生が決定づけられることはない、と教えます。そして、そのような期待をもってそれらを求めることを「貪欲」と言っているのです。

この人は、自分の正当な取り分を超えて何かを求めていたわけではありません。しかし、遺産を受け継いでそれによって自分の人生を築こうとしているという意味で、イエスさまの言っている「貪欲」に陥っているのです。ということは、私たちは誰もが皆、貪欲に陥っていると言わなければならないでしょう。私たちは、自分が何を持っているかで人生が決定づけられると思っています。生まれつき与えられているものであれ、努力して獲得したものであれ、自分の持つ広い意味での財産に依り頼んで人生を築こうとしています。そこで、あなたの心はそういう貪欲に支配されているのではないか、とイエスさまは私たちひとりひとりに問いかけているのです。

3. 人生の空しさ

そしてイエスさまは一つのたとえを語ります。従来の倉を取り壊してより大きな倉を建てなければならないほどに有り余る収穫を得た金持ちの話です。収穫を全部しまいこんだ彼は自分自身に、《さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ》(19)と言いました。しかし神は彼に、《愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか》(20)と言います。この話は、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」という教えを具体化したものです。「これから先何年も生きて行く」つもりでいる人が、その日の内に、突然の病で、あるいは事故で、命を失うことがあります。どんなに豊かな財産を蓄えても、死んだら、誰か他の人のものになってしまうのです。

4. 愚かな者

神はこの金持ちのことを「愚かな者よ」と言っていますが、彼のどこが愚かだったのでしょうか。彼が愚かだったのは、自分が得たもの、蓄えたものによって命を得られる、生きられると思ったことです。持つものによって人生が決まると思ったことです。つまり、貪欲に陥ったことです。賢い者となって生きるとは、この貪欲から解放されることなのです。言い換えれば、自分が持っているもの、得たもので人生が決まるという固定観念から解放されることです。

では、どうしたらその思い込みの愚かさを自覚し、それから解放されるのでしょうか。それは、私たちの「人生を本当に決定づけるもの」が何であるかを知ることによってです。私たちの「人生を本当に決定づけるもの」とは、私たちのものとして蓄えられる何かではなくて、私たちに命を与え、人生を導き、そしてそれを終わらせられる神です。自分に命を与え、それを終らせる神がいることを知ることによってこそ私たちは、自分が何を持っているかによって人生が決まるというのが迷信であることに気づけます。そして、少しでも多くのものを持とうとあくせくする貪欲から解放されるのです。

5. 神の前に豊かになる

きょうの福音の最後に、《自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ》(21)とあります。「このとおりだ」と言われているのはこの愚かな金持ちです。彼は自分のために富を積みましたが、神の前に豊かにならなかったのです。神の前に豊かになるとはどういうことでしょうか。私たちはこれをともすれば、神に喜ばれるような良い行いに励むこと、善行を天に積むこと、と理解しがちです。しかし、この金持ちが愚かといわれるのは、善行を積まなかったからではなくて、神との関係を確立して生きようとしなかったからなのです。「自分のために富を積んだ」というのも、自分の持っているものによって生きることができると考え、自分自身へと富を積んだのです。それが「貪欲」です。その「貪欲」こそが、彼の愚かさでした。

本当に必要なのは、神の前に豊かになること、つまり神との関係における豊かさをこそ求めることです。その豊かさは、私たちの良い行いによって得られるものではありません。その豊かさは私たちが積み上げ、蓄える豊かさではなくて、神が、イエス・キリストによって与えてくださる恵みの豊かさです。すなわち、神の前に豊かになるとは、イエス・キリストによって、その十字架と復活によって与えられた神の救いの恵みを信じ、それにあずかって生きることです。そこに、「貪欲」から解放された新しい生き方が生まれるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは、人は自分の持ち物で自分の命を確かにすることはできない、人の命は恵みの神のみ手のうちにあることを教えられました。私たちが恵みのみ手に信頼して生きていけますように。私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン