杉並聖真ルーテル教会

目を覚ましていなさい

「32小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

35「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。 37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。 38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。 40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

1. 小さな群れよ

イエスさまは弟子の群れに、《小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる》(32)と言っています。いつの時代でも、イエスさまと共に神の国を追い求める弟子は、少数派です。イエスさまは前の7節でも《恐れるな》と言い、11節では《心配してはならない》と言っています。イエスさまが何度でも語りかけ、新たに恵みの中に立たせてくれなければ、すぐに教会の中を覆ってしまう「恐れ」があったからです。私たちはしばしば、イエスさまにつながることを忘れて、自分たちでこの不安に立ち向かい、恐れを克服しようとします。

先週読んだイエスさまの「愚かな金持ち」のたとえ(13-21)に出てくる金持ちは、大きな倉を建て、自分の収穫をみんなしまいこみました。堅実でまっとうな歩みに思えます。しかし、それは神の目からは「愚かな者よ」(20)と宣告されるような生き方でした。決定的に大事なものが抜け落ちていたからです。神がすべてに先立って、私たちの毎日の歩みに心を配っていてくださることです。

イエスさまは、あなたに心を向け、きょうも命を与え、生かして下さっている父なる神の顧み、慈しみのまなざしをこそ見詰めなさいと招いています。《何を食べようか、何を飲もうか》(29)と追い求めるのではなく、《ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる》(31)のです。この世の富ではなく、父なる神に心をつなぐこと、それが本当に恐れを克服する道です。

2. 富のある所に心もある

34節でイエスさまは、《あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ》と言っています。富とは、値打ちのある大切なもののことで、それはお金や金や銀といった貴金属や宝石などです。そして、その宝のあるところに、「あなたがたの心もある」と言うのです。イエスさまのたとえの「愚かな金持ち」は、自分の財産を蓄える倉を建てることに心がありました。

それに対してイエスさまは、33節で《富を天に積みなさい》と言います。いったい「富を天に積む」とはどういうことでしょうか。

3. 天に富を

その言葉の前に、《自分の持ち物を売り払って施しなさい》(33)という言葉があります。自分の持ち物を売り払って施すことは、倉を建てて蓄えることとはまったく逆のことです。たとえ話の金持ちは、食べたり飲んだりして自分が遊んで暮らすために蓄えたのです。それを施してしまえば、せっかく安心して楽しく過ごすために蓄えたものがなくなってしまいます。

しかし、それは天に富を積んだのだ、とイエスさまは言うのです。貧しい人に施しをする。あるいは、神さまの御用のために献げる。そうすると、当然自分の手持ちのものは減ります。しかし、それが天に富を積んだことになるのだと言います。神が富を喜ぶということではありません。神の求めるものは愛であり、心です。神への愛、隣人への愛、それが天に富となって蓄えられるということなのです。

4. 神が養ってくださる

これと同じ章で、イエスさまは、《命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな》(22)と言い、《ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる》(31)と言っています。それは、「神は烏(24)を養ってくださる」(24)のだから、神はあなたがたも養ってくださる、だから心配しないで神の国を求めなさいと言ったのでした。

自分で自分の生活のことをすべて心配しなければならないとしたら、やはり倉を建てて財産を蓄えることが目標となるでしょう。しかし神が養ってくださるのだとしたら、必要以上に心配することはなくなります。いざとなったら神が必要なものを与えてくださる。自分のことで精いっぱいという状態から解放されて、神のために、そして隣人のために心を向ける余裕が生じます。

5. キリストの再臨

35節からの段落で、イエスさまがたとえを交えながら話しているのは、「キリストの再臨」のことです。この世の終わりの時に、キリストがふたたびこの世に来る。40節で《人の子は思いがけない時に来る》とありますが、この「人の子」がイエス・キリストのことです。この段落はキリストの再臨のことを言っているわけです。

世の終わりというと、極端な話という印象を与えますが、私たちのこの世の人生が終わることに置き換えて考えると分かりやすいと思います。ここでは、そのキリストの再臨の時を、どのようにして迎えたら良いのか、ということを話しているのです。

イエスさまは、《腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい》(35)と話し始めます。これはたとえ話です。《主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき》(36)、とありますが、当時の婚宴は、今日の結婚式と披露宴のように時間単位で終わって帰ってくるようなものではありません。当時の婚礼の宴は夜中まで続き、帰宅は夜になるのが普通でした。婚礼に出席した主人がいつ家に帰ってくるか、しもべには分かりませんでした。しかしここでイエスさまは、主人がいつ帰ってくるか分からないから、眠っていなさいとは言わず、目を覚ましていなさい、腰に帯を締めてともし火をともしていなさい、ご主人様が帰ってきた時にすぐに迎えることができるようにしておきなさい、と言います。

そうすれば、主人は逆に僕たちのために帯を締めて給仕をしてくれるというのです。いくらしもべが良くやったからと言って、そこまでする主人はいないでしょう。しかし、イエスさまの姿はまさにそうだったのです。それほどに、主人が帰ってくる時のために腰に帯を締め、ともし火に火を灯して待っていること、目を覚ましていることが求められているのです。

6. 目を覚ましているとは

このたとえ話は、一体何を言おうとしているのでしょうか。《あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである》(40)とイエスさまは言い、そして《目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ》(38)と言います。つまり、イエスさまがふたたびこの世に来るときに、目を覚ましてイエスさまを迎える準備をしていなさいということです。イエスさまは39節の「泥棒のたとえ」でも、弟子たちにいつ来るか分からない終わりの時に備えて生きるように求めています。

7. 罪人の救い

では、その準備とは、何を指すのでしょうか。いつも礼拝していなさいということでしょうか。いつも愛に満ちた行動をしていなさいということでしょうか。

ここでイエスさまの弟子たちのことを振り返ってみましょう。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架にかけられるために捕えられたとき、皆イエスさまを見捨てて逃げて行きました。とくにペトロは三度もイエスさまを知らないと否みました。ですから、皆、天国に入れてもらえる資格はありません。

ところが、十字架で死なれたイエスさまはよみがえり、驚くことに弟子たちの所に来ました。弟子たちには合わせる顔がないはずです。ところが復活のイエスさまが来られたとき、それがまさしくイエスさまであることを知って、弟子たちは喜びました。ご自分を見捨てた弟子たちを赦し、再び弟子として世界に遣わすために来られたイエスさまを喜んだのです。

弟子たちは、自分の身を守るためにはイエスさまさえも見捨てるという弱さ、罪が自分にあることを知りました。それゆえ、そんな自分たちを救ってくださるイエスさまなしには生きられないことを知りました。それで、復活のイエスさまが来られたとき、喜んだのです。

「こんなどうしようもない私を、どうか救ってください」。私たちはそのように言うことしかできません。しかしそのような私たちを、イエスさまは迎え入れて、神の国へと連れて行ってくださいます。そのとき、キリストの再臨は喜ばしいこととなります。それゆえ、いまキリストが再臨されても良い状態にあること。このことが、主人であるイエスさまが来られる準備ができていることとなるのです。それゆえ、キリストの再臨という時を、希望を持って待つことができるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子をこの世に送り、十字架の死に引き渡されるほどに、私たちを愛し抜かれたあなたの愛に感謝します。イエスさまが再び来られる時まで、御言葉のともし火を掲げ続けることができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン