49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」
54イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 55また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。 56偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
本日のイエスさまの言葉には、私たちが戸惑うようなことが語られています。イエスさまは、平和のないこの世に、平和をもたらすために来ました。争い、憎み合い、ねたみや怒りが渦巻くこの世に、愛とゆるしを説きました。それなのに、今日のみ言葉はどうしたことでしょう。
では、イエスさまの言葉を確認していきましょう。
まず49節で《わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである》
と語りました。これに関しては、たしかに洗礼者ヨハネもイエスさまを指して、《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる》
、とルカ3章16-17節で言っています。
ここで言う「火」とは、神の裁きを表します。とくにここでは世の終わりの最後の審判を指しています。
「しかし」とイエスさまは言います。《しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう》
(50)。
イエスさまは、なぜそれほどまでに苦しむのでしょうか。それはイエスさまが私たちを愛しているからです。愛ゆえに、神の裁きの火で滅ぶ私たちを救おうとするからです。神を信じない、罪人である私たちが滅びることを善しとせず、手を尽くして何とか救おうとして苦しむのです。
愛は苦しみを伴います。なぜ愛が苦しみを伴うかというと、それは他人が滅びるのを放っておけないからです。それは子どもを持つ親の気持ちにたとえられます。子どもが成長していって、やがて悪に染まったら、悪事を繰り返したら、親はたいへん苦しむことでしょう。なぜなら、我が子を愛しているからです。
イエスさまの「わたしはどんなに苦しむことだろう」という言葉に、私たちは胸を痛めます。けれどもそれは、この私たち罪人を救うための苦しみです。そして、「受けねばならない洗礼がある」というのは、いわゆる洗礼のことではなくて、ここでは、十字架刑を指しているのです。
私たちを愛するがゆえに、救おうと心を砕き、ひどく苦しみ、私たちに代わって滅び、そして引き換えに私たちが救われる。その十字架に、イエスさまは向かっているのです。
いよいよ、平和ではなく分裂をもたらすために来た、とイエスさまが語られた、51節からの部分に移ります。私たちが最も不安を覚えるみ言葉です。
イエスさまは、この世の人々を愛し、真の平和を与えるために来ました。しかし、人々はそれを信じませんでした。それどころか、イエスさまを捕えて十字架にかけました。イエスさまが対立や分裂を起こしたのではなく、信じない人々がイエスさまを排除し、十字架に追いやったのです。対立や分裂が生じたのは、その結果です。
同じく、信じる人も、イエスさまに従おうとする時に、身近な人たちから、あるいは家族からさえも誤解され、その結果、対立する立場となる、時には迫害をされる場合すらあるのです。
イエスさまは最後に天気を見分けることについて話し始めます。《あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる》
(54-55)。
イスラエルでも普通は雲が西から東へ動くようです。ですから、西の空に雲が出てくると、雨が降るということが分かります。なぜたとえに天気が選ばれたかといえば、お天気は、仕事や生活に影響を与える、聴衆にとってなじみ深い話題だからです。雨が降れば農作業や、外での仕事は難しくなりますし、買い物に出ること一つをとっても、天気は気になるものです。
さて、イエスさまは続けます。《偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか》(56)。
「時を見分ける」とは、どういうことでしょうか。いったい何を指しているのでしょう。この前にイエスさまは、人々に向かって「偽善者」と言いました。これは日本語ではかなり厳しい言葉に聞こえます。根は悪いのに、善人ぶっているというような意味で、人々を断罪しているようにも聞こえます。ですが、これはギリシア語では、「役者」「俳優」を指す言葉で、「あなたがたは演じている」程度の意味です。
では何を演じているというのでしょうか。ここではまず、神を信じることを演じているということが言えるでしょう。それは信じてもいないのに信じている振りをすると言うよりも、当時の宗教指導者たち、つまりファリサイ派や律法学者の教えた通りの宗教活動を演じているということだろうと思われます。それは本当の信仰ではありません。教えられたとおりに演じているに過ぎません。ならば、どうすれば、「昔の人の言い伝え」の束縛から解放されて、演じた役ではない、本当の自分になれるのでしょうか
ここでイエスさまは、「今の時」と言っています。「どうして今の時を見分けることを知らないのか」。「今の時」とはつまり、イエス・キリストが来た、この時ということなのです。
神は永遠を思う心を人に与えられました。私たちは「時」に縛られています。その結び目は固く、自ら解くことはできません。しかしその私たちが、神に結びついたならば、時の束縛から自由になることができます。それは、「永遠」というものが時を超えているからです。神だけが永遠であり、その永遠の神を信じることで、私たちは時を超えることができるのです。
57~59節では、《あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか》
と、たとえが語られます。「あなたを訴える人」がいた。役人の所に行って裁判を受ける前に、その人と仲直りするように努めなさい、というものです。その通り、牢屋に入れられる前に、相手の人と仲直り、言い換えれば和解をするべきです。
これは、神と和解するべきだというたとえです。私たちは神に対して罪を犯しています。そのままでは有罪となりますから、裁きを受ける前に神と仲直りをしなさい、和解をしなさいということです。しかし、いったいどうやって和解をしたら良いのでしょうか。それを可能にするのがイエスさまの十字架です。神と私たちが和解するためにイエスさまは来られ、十字架にかかられました。
聖書には、《今や、恵みの時、今こそ、救いの日》
(Ⅱコリント6章2)と書かれています。イエスさまを信じる時は「今」であると伝える言葉です。「いつか」ではなく、今です。
私たちは、イエスさまに従って行くのは、今はふさわしくない、と思います。しかしイエスさまは、「今」が恵みの時、救いの日と教えています。イエスさまの十字架により、いつでも神を信じる「時」となったのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが与えてくださった御子の十字架による罪の赦しに真実に生きることができますように。それゆえに今という時があるうちに、あなたと真実の和解に与って生きる者とならせてください。 救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン