1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。 8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
ある安息日の礼拝後、イエスさまは、あるファリサイ派の議員から食事に招待され、その人の家に入ります。このときの様子は1-6節に記されています。この日、イエスさまは礼拝で説教をしたのでしょう。そして、そのお返しまでにと食事に招待されたと考えられます。
ここで「議員」とは最高法院の議員のことですから、この人は地域の有力者であり、ユダヤ教社会上層の指導的人物でした。この食事の席もかなりの規模であり、多くの客が招待されていたのでしょう。そのことが、この席で語られたイエスさまの「婚礼のたとえ」に反映しています。
まず招かれた者の姿が語られます。イエスさまは招待を受けた客が上席を選ぶ様子をごらんになります。これはどの宴席でも見られることで、人間は少しでも他の人の上に立ちたいと願うものであることを示しています。そこでイエスさまは「たとえ」を語ります。
《婚宴に招待されたら、上席についてはならない》
(8a)と言い、その理由を語っています。《あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる》
(8a-9)。宴席では、席順が重要視されます。客が自分で上席を選んで着席し、その席が招待者の予定と異なった場合、その席を譲って末席に移らなくてはなりません。
《招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる》
(10)。ですから、「招待を受けたら、むしろ末席に行って座る」のが賢明な態度ということになります。末席であれば、さらに下の席に移るよう求められる心配はありません。招待者の決めた序列に従って、上の席に移るように求められる可能性があるだけです。
「婚礼に招待されたら、上席に着いてはならない。むしろ末席に行って座りなさい」という教訓は、実際の社会生活で賢明に振る舞うために有益な教訓です。しかし、イエスさまはこの議員の宴席で、社会生活のための教訓を与えているのではありません。これは、「神の国」の招きを受けた者の姿勢を指し示す「たとえ」です。イエスさまはしばしば「神の国」を宴席への招きとして語られました。イエスさまの「神の国」告知の働きは、神の国の祝宴への招きであり、婚宴に招かれた客とは、神の国の宴に招かれた私たちのことを指しています。その招きを受けた者は、自分の価値を言い立てて上席に座るような姿勢ではなく、価値のない者として末席につく姿勢で、その招きに応じなければならないのです。
このたとえは、自分が律法を順守したことを誇り、その功績によって神の国に入る資格があるとするファリサイ派に対する批判が含意されています。どの席に着かせるかは、招いた方が決めることで、招かれた者が自分で決めることではありません。このことが次の格言で表現され、この招待客についての箇所を締めくくります。
《だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる》
(11)。この文の原文は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからである」と、「自分を」が入っています。すなわち、自分で自分を高くする者は、(神によって)低くされ、自分で自分を低くする者は、(神によって)高くされるのです。「低くされる」とか「高くされる」という受動態の行為者は招いた方、神です。イエスさまは「神の国」が「恵みの招き」であることを、このようなたとえで語ったのです。「神の国」、「神の支配」とは恵みの支配のことですから、そこには自分の義を誇る者は入れず、ただ自分を無とする者だけが入れるのです。
招かれた客への教訓を「神の国」のたとえとして語られたイエスさまは、続く12節以降で、招いてくれた人に向かって、招くときの心構えを語ります。これもたんなる社会生活上の勧告ではなく、「神の国」のたとえです。イエスさまを招いた「ファリサイ派のある議員」に向けての言葉ですが、もちろんその場にいたすべての人も聞いています。
イエスさまは、《昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである》
(12)と言います。
イエスさまは、宴会に客を招くとき、お返しをすることができるような友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも招くのではなく、お返しができないような人たちを招くように勧めます。《宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる》
(13-14)。
当時の社会では「体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」などの障害者は差別され、物乞いをしなければ生きていけないような人たちでした。そのような「貧しい人たち」はお返しができないから、そのような人たちを招待をした人は、その善意の報いを招かれた人から受けるのではなく、神から受けるようになるので、幸いだと言われます。貧しい者を顧みられる神は、そのような貧しい恵まれない人たちが受けた善意は、自分に対してなされた善意として見ておられるからです(マタイ25章34-40「羊と山羊のたとえ」)。
このようにお返しができない貧しい人たちを招く主人の姿は、神が資格のない者を無条件絶対の恵みをもって神の国に招いておられることの「たとえ」です。この恵みの招きは、イエスさまがユダヤ教社会では罪人として疎外されている徴税人や遊女たちと食事を共にして仲間であることを示された行動によって具体的に示されていました。今その恵みの招きが、貧しい者を宴会に招く主人の姿にたとえて語られているのです。私たちもイエスさまに倣って、憐れみに生きるようにならなければなりません。
イエスさまは、神と等しい方であったのに、天から地に下り、社会の底辺に生きている人たちの友となり、彼らを招いて食卓を囲むお方です。また、安息日であっても病を癒したお方であり、触れてはならない人にも触れていったお方です。その一つ一つの行為がイエスさまを十字架の死へと追いやっていくのです。愛に愛が返って来ない。むしろ、無理解と憎しみが返ってくる。それでも、愛することを止めない、その極みが十字架の死です。人の罪の赦しを乞い、身代わりに裁かれる死です。そういうイエスさまを、神は高く引き上げ、復活と昇天をもって報われます。人からは報われない。でも神から報われる幸福があります。「あなたがたにはこの幸福を生きて欲しい」と、イエスさまは願っているのです。
イエスさまの弟子のなすべきことは、《日々、自分の十字架を背負って》
(ルカ9章23)イエスさまに従うこと以外にありません。その十字架を通してのみ、復活に至ることができます。つまり、徹底的に自分を低くしていくしかないのです。それは単なる謙遜ではなく、自分の罪を徹底的に知っていくという渇望です。私たちはイエスさまに従おうと真剣になるときに初めて、自分の罪深さを知ります。そのとき、《神様、罪人のわたしを憐れんでください》
(ルカ18章13)と祈る者となり、義とされます。こうして正しい者とされた私たちの歩みは、この世の報いは期待せずに、神が正しい者たちを復活させてくださるという報いを確信して、信じて生きることとなるのです。イエスさまは、日々、その信仰の道へと私たちを招いてくださっています。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたに招かれた私たちが、あなたが備えてくださっている安息日の祝福と平安に、ともどもに与かることができますように。天上であふれる喜びを、私たちもまた主のからだなる教会において分かち合えますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン