杉並聖真ルーテル教会

主イエスの弟子であるとは

25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

1. 最後まで信仰をまっとうするために

《大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた》(25)とあります。エルサレムに向かう旅の途中でのことです。大勢の群衆が一緒についてきたのは、この御方に特別な期待を抱いてのことでしょう。そのきっかけの一つはイエスさまがなさった数々の奇跡であったことは間違いありません。

しかし、人々はそこにただ神の力を見ただけではありませんでした。人々はイエスさまの御業に、神の慈しみを見たのです。ですから次の章に見るように、病気の人たちだけでなく、徴税人や罪人たちもイエスさまに近寄ってきたのです。この御方を通して、恵みの神はイスラエルに救いを実現しようとしているとの期待は、エルサレムに近づくにつれ、高まっていったことでしょう。

神の救いによって神の王国が実現するということ。多くの人々は、それをローマ人の支配からの政治的な解放と同一視していたのかもしれません。いずれにしても、何かが起こるとしたら、やはり舞台はエルサレム以外考えられません。人々はイエスさまに大きな期待を抱きつつ、エルサレムへの旅に一緒について来たのです。

しかし、イエスさまがこの旅の終わりとして見ていることは、人々と同じではありませんでした。そもそもの旅の始まりを聖書は次のように伝えているのです。《イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた》(9章51)。つまり、イエスさまはこの世の命の終わりが近いことを思いつつ、エルサレムに向かっていたのです。御自分が苦難を受け、十字架につけられて殺されることになるのを分かった上での旅だったのです。

そして、イエスさまはさらにその先を見据えていました。復活の後に弟子たちはこの世界に遣わされることになるでしょう。そのためにすでにイエスさまは弟子たちを近隣に遣わして訓練していたのです。彼らは十字架につけられたメシアを信じ、宣べ伝えることになるでしょう。ならば彼らもまた苦難を受けることになるでしょう。弟子たちも自分の十字架を背負って従うことになるのです。後のキリスト者がどのような道を辿ることになるのかを、イエスさまは分かっていたのです。

もちろん、イエスさまの旅について歩いている群衆は、そのようなことは知りません。バラ色の未来しか思い描いていないのです。それゆえに、イエスさまは振り向いて言われたのです。《もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない》(26-27)。

ここでイエスさまが言っているのは、弟子であり続けることができるのかどうかです。信仰を最後までまっとうできるのかどうかという話です。弟子になるならば、最後まで弟子としてまっとうすることが求められます。それを語るのが、続くイエスさまのたとえ話です。

ここで繰り返されているのは「まず腰をすえて」という言葉です。彼らは大いなる救いの期待に胸を膨らませてついて来たのでしょう。彼らはいったん座ってよく考えなくてはなりません。

最初のたとえ話は、塔を建てるならば、まずは座って落ち着いて考えて、最後まで建て上げるつもりで建て始めるだろうという話です。二つ目のたとえも同じです。進軍して来る敵があるならば、まずは座って落ち着いて考えて、迎え撃つならば最後まで戦って打ち勝つつもりで迎え撃つだろう、という話です。座って考えて、勝てそうにないならば、初めから戦争などしないだろう、と。

そのように、イエスさまの奇跡を見て、神の国がすぐにでも現れる、救いの世界が実現すると期待してついていく人々に対して、「ついて来るなら、最後まで従う覚悟でついて来い」と主は言ったのです。そして、最後までついて行く覚悟であるならば、必要になるのが次のことです。

《もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない》(26-27)。また、イエスさまはこうも言います。《だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない》(33)。

2. 一番大切なものは何か

これは実に強烈な言葉です。しかし、この「憎む」という言葉はこの言語特有の表現で、二つの物があって、その一つを選ぶとき、「一つを愛し、他方を憎む」という言い方をするのです。ですから「憎む」は「選ばない」ことを意味します。つまり、これはどちらを取るのか、どちらを第一にするのか、という話なのです。

もし「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹」との関係を第一とするならば、キリストとの関係を捨てることになります。そのような者は、もはやキリストの弟子ではありえません。それだけでなく、「自分の命であろうとも」とイエスさまは言います。この世の命が第一であるならば、その命が失われるよりはキリストを捨てることを選ぶでしょう。その者はキリストの弟子ではありえません。このことは歴史上枚挙にいとまない、この国においても起こったことです。

33節に書かれている自分の持ち物の話についても、基本的には同じです。それに執着しないことが「捨てる」という言葉で表現されています。自分の持ち物が最も大切であるならば、それを迫害によって失うよりはキリストを捨てることを選ぶでしょう。その者はキリストの弟子ではありえません。

以上のように、イエスさまが言っていることは、迫害の時代を背景に考えるならば、当たり前のことを言っているに過ぎません。しかし、当然ですが、今日の私たちはこの御言葉をどう聞くのかが問われます。私たちは、私たち自身に向けられた神の言葉として真剣に受けとめるべきです。

そもそもここで問題とされているのは、何を第一にするのか、ということです。イエスさまとの関係なのか、それとも他の関係なのか。このことについて、やはり私たちは自らを省みて考える必要があるのでしょう。

考えてみれば、父との関係にせよ母との関係にせよ、その他の関係にせよ、私たちの意志とは関係なく失われ得る関係です。それらは私たちの手の内にはありません。そして、それらの関係が私たちにとって第一であり、「最も大切なもの」であるならば、それを失った時に、私たちは「最も大切なもの」を失ったことになるのです。その中で一番分かりやすいのは、「自分の命」との関係です。「自分の命」。この世の命。それが自分にとって一番大切なものであるならば、それを失うことは最も大切なものを失うことに他ならないのでしょう。

この世の命は、様々な形で削り取られ失われていきます。ある人は、病気によって命が削り取られていくのを経験するでしょう。ある人は、愛する人との別れによって。ある人は、挫折によって夢を失って、苦しみを味わいます。

星野富弘さんのことをご存じの方も多いとおもいます。星野さんは一瞬の出来事によって手足の自由を失ってしまった。「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが/苦しかった」。それは星野さんの実感だったのだろうと思います。しかし、星野さんは「いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」と言うのです。星野さんにとって、それはイエスさまとの関係だったのです。それこそ御自分の命よりも私たちを大切に思い、十字架にかかった、その御方との関係です。その御方が「ついて来なさい」と言いました。復活して永遠に生きている方がそう言いました。もしこの御方を第一とするならば、私たちにとって最も大切な関係は永遠に失われることはありません。それは、真実、何よりも幸いなことなのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが世を愛して御子イエスさまをお与えくださったことを喜び感謝します。その愛の力をいただいて、私たちが日々、自分の十字架を負って、イエスさまの後を歩めますよう見守り、導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン