1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
《徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは『この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている』と不平を言いだした》
(1-2)。神に背いて生きていると見なされていた「徴税人」たち。宗教的な戒律を守らず、ユダヤ人社会からはじき出されていた「罪人」と呼ばれている人たち。彼らは安息日ごとに会堂で朗読されている神の律法も、代々にわたって伝えられてきた神の偉大な救いの物語も、自分とは無関係だと思って生きてきました。彼らは、弟子を連れて歩いているラビ、宗教的な指導者たちを見かけても絶対に近づかなかったのです。見下され軽蔑されていること、呪われた者と見なされ断罪されていることが分かっているからです。
しかし、そのような彼らが、不思議なことに、「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」のです。原文では、この時だけでなく、いつもイエスさまの周りでそういうことが起こっていた、というニュアンスを読み取れます。彼らをイエスさまはいつも喜んで迎え入れました。喜んで彼らに神の救いを語り、彼らと共に食事をしていたのです。ユダヤ人たちにとって、一緒に食事をするということは、互いに受け入れ合う「主にある交わり」の象徴でした。
ところが、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」は、それを喜べません。彼らは律法を厳格に守っていた真面目な人々です。人々から尊敬もされていた模範的なユダヤ人であり、敬虔な人々です。彼らはイエスさまの姿を見て、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とつぶやいたのです。そこでイエスさまは彼らに三つのたとえ話をしました。今日は特にその一つ目のたとえ話に注目したいと思います。
イエスさまは、《あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば》
(3)と語り始めます。ユダヤ人にとって羊は極めて身近な動物でした。百匹の羊というのは一つの群れとしては一般的な数だったようです。百匹の羊を飼っていれば、その内の一匹を見失うこともあったでしょう。そのような意味で、イエスさまの話は、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にとっても、馴染み深い話であったと言えるでしょう。
「その一匹を見失ったとすれば」とありますが、羊飼いの注意散漫が原因ではなく、羊が羊飼いの声に付いて行かなかったという意味合いです。
それは、ヨハネによる福音書の羊のたとえに明らかに示されます。《羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く》
(10章3-4節)。実際に、羊飼いが声を上げながら囲いから羊を導き出し、牧草のあるところに連れて行く、そして再び声を上げながら羊を囲いの中へと導くのです。ところが時として、羊飼いの声を聞いても付いて行かず、迷子になる羊がいるのです。羊飼いの声が届く範囲から迷い出てしまうと、もう自分では戻ることができません。それがここで語られている「見失われた羊」です。
これを聞いている「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にとっては、まさに「徴税人や罪人」こそ、「見失われた羊」です。神の声に従わず、律法に従わず、「イスラエル」という神の羊の群れから、自分勝手に迷い出た連中。まさに「見失われた羊」です。その意味でも、イエスさまの話は彼らにとって、「馴染み深い話」でした。
ところが、イエスさまはその「馴染み深い話」を「全く馴染み深くない話」に変えてしまいます。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば」と語ったのち、こう続けたのです。《九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか》
(4)。
これは、そこにいた人たち全員が「まさか。あり得ない!」と思うような極端な話です。「九十九匹を野原に残して」とある、その「野原」は、ほとんどの場合「荒れ野」と訳される言葉です。洗礼者ヨハネが現れた「荒れ野」、イエスさまが悪魔から誘惑を受けた「荒れ野」は、この「野原」と同じ言葉です。羊飼いはそんな荒れ野に九十九匹を放り出したまま、迷い出た一匹を見つけ出すまで捜し回ります。神が、ご自身のもとから迷い出て滅びかけている私たち一人ひとりを見つけ出すまで捜し回ってくださる、とイエスさまは言っているのです。
見失った一匹が、ほかの九十九匹と比べて特別であったわけではないように、神が滅びかけている私たち一人ひとりを見つけ出すまで捜し回ってくださるのは、私たちがほかの人と比べて特別だからではありません。羊飼いが自分の羊を失わないために捜すように、神はご自分のものを失わないために私たち一人ひとりを捜してくださるのです。しかしそれは、驚くべきことです。私たちに、神が私たちをご自分のものとしてくださるにふさわしい価値が少しでもあるのではありません。まったくないのです。私たちは自分の力で生きることができると勘違いして、神から離れてしまい、滅びかけていました。滅んでしまって当然でした。それにもかかわらず、神は私たちをご自分のものだ、と言ってくださり、私たちが滅びないように、見つけ出すまで捜し回ってくださるのです。ここに神の愛があります。この神の愛を、イエスさまはこのたとえを通して伝えているのです。イエスさまは、天の父なる神はそのような御方なのだ、と言っているのです。
「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にとって、迷い出た一匹とは「徴税人や罪人」であり、自分たちは羊飼いの声に聞き従った九十九匹です。自分を九十九匹の側と見なして聞くならば、これは実に腹立たしい話です。
一匹と九十九匹のこの話が、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にどう受け取られるかは、イエスさまも分かっていましたから、このたとえ話をこう締めくくりました。《言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある》
(7)。「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」。イエスさまはあえてそう表現しました。それこそ彼らの自己認識だったからです。しかし、徴税人や罪人を見下し、断罪していた彼らは、本当に「悔い改める必要のない正しい人」なのでしょうか。彼ら自身は、神の声が届く範囲から迷い出てはいないでしょうか。 神から遠く離れてはいないのでしょうか。
イエスさまがこのたとえ話で語っているのは、天の父なる神の心です。迷い出て遠く離れてしまった羊をどこまでも追い求め、その一匹の羊のことしか考えられないほどに憐れに思い、見つけ出すまで捜し回る羊飼いの心です。そして、迷い出た羊を見出した羊飼いの心にある大きな喜びです。失われた羊が、今やわたしと共にいるという、羊飼いの爆発的な喜びが、極端なほどの描写で語られているのです。《そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう》
(5-6)。
そのように大喜びする羊飼いの喜びは、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にも、イエスさまの周りに集まってきた罪人たちの姿のうちに、共に食事をしている彼らの姿のうちに、ありありと感じ取れたはずです。しかし、彼らはそんな天の父の喜びを共有できませんでした。彼らは真面目な人たちだったかもしれません。しかし、天の父の心から、天の父の喜びから、戻れないほど遠くまで離れてしまっていました。実は、彼らが自分の立ち位置と見なすべきは九十九匹ではなくて、迷い出て見失われた一匹のところだったのです。そして、私たちが自分の立ち位置と見なすべきなのも、迷い出て見失われた一匹のところです。
神は私たちをも、追い求め、捜し求めてくださいました。独り子を罪に満ちたこの世界に遣わし、十字架にかけるまでに、そして遠く離れたこの地に教会を建てるまでに、私たちを追い求め、私たちを見出してくださいました。
神は失われた一人が見つけ出されることを、滅びかけていた一人が救われることを喜んでくださいます。そして私たちに「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と呼びかけるのです。ここに描かれている羊飼いの大きな喜びは、今も天に満ちている神の喜びです。私たちの能力があるからでも、功績があるからでもありません。あの一匹の羊は何もしていません。ただ羊飼いに見出され、担がれているだけです。羊飼いにとっては存在そのものが喜びなのです。まさしく私たち一人ひとりの存在そのものが神の喜びなのです。それゆえに、私たち自身もまた、私たち自身の存在を喜び、お互いの存在を喜び、そのようにして神の喜びを共有しながら、共に信仰の歩みを進めていきましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御子イエスさまの言葉と業を通して、人間に対する深い愛を現してくださいました。私たちは、あなたに対してまた隣人に対して、利己的な姿勢をとり続けてしまいます。聖霊により私たちを新たにしてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン