杉並聖真ルーテル教会

やもめと裁判官のたとえ

1イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

1. 不正な裁判官

きょうの箇所は冒頭1節で《イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された》と始まり、2節で《ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた》と、まず裁判官が登場します。

旧約聖書は、裁判官は人のためではなく主のために裁くとして、不正や偏見や収賄がないよう注意深く裁くよう命じています。そして、公正に裁くためになによりも求められていることが、「主への畏れ」です。しかし、イエスさまの譬え話に登場する裁判官は神を畏れない裁判官ですので、裁判官としてなによりも必要とされる「主への畏れ」を持っていませんでした。6節で《この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい》とあるように、イエスさまはこの裁判官を「不正な裁判官」と呼んでいます。

2. 神を畏れて生きる

言うまでもなく、裁判官だけが神を畏れることを求められているのではありません。私たちすべてのキリスト者がそれを求められています。神は誰も見ていなくても私たちがすることを見ておられ、誰一人知らなくても私たちの心の中にある様々な企てをご存じなのです。この神を畏れて生きるとき、私たちは自分自身の行いや思い、自分の語る言葉に注意を払うようになります。

逆に、私たちが神を畏れずに生きるとき、私たちは神の眼差しを気にすることなく、自分勝手に、自己中心的に生きるようになり、自分の欲望を実現するために生きるようになるのです。この裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない」と言われていました。つまり神を畏れないことと、人を人とも思わないことは別々の生き方ではなく一つなのです。人を人とも思わないとは、自分の目の前にいる人、自分の周りにいる人に対して、自分と同じ一人の人間として関わろうとしないという生き方です。

3. やもめ

続いて、まさにそのような社会で苦しんでいる一人のやもめが登場します。3節で、《ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた》と語られています。このやもめは、裁判官のところに何度も何度も来ては訴えたのです。このやもめと相手との間にどのような問題が起こったのかは何も語られていません。当時、やもめは社会的に弱い立場にありました。申命記10章17~18節には、《あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる》とあり、主なる神が寡婦の権利を守ると語られています。イエスさまの譬え話で、やもめが裁いてほしいと訴えている相手は、この「寡婦を苦しめてはならない」という戒めを守ろうとせず、弱い立場にあるやもめに対して不当なことを行ったと思われます。

この相手は社会的に強い立場の人物であったに違いありません。強い立場にいる人間が、弱い立場にいるやもめの権利をないがしろにし、彼女を苦しめたのです。4節の前半で《裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった》と語られています。この裁判官は、相手がやもめの権利をないがしろにしたことは分かっていたはずです。しかしやもめの訴えを聞いて裁判を行えば、強い立場にいる相手の不興を買いかねません。この裁判官はやもめの権利を守るよりも自分の利益を優先しようとしたのです。

自分にとって利益があれば相手と関わるけれど、利益がなければ関わらない、それどころかないがしろにする社会が、人を人とも思わない社会です。そのような社会で私たちは息が詰まり、苦しみ葛藤するのです。

4. 気を落とさずに祈る

イエスさまは、目には見えなくても《実に、神の国はあなたがたのただ中にあるのだ》(17章21)と言われました。しかし私たちが日々直面している現実を思うとき、私たちはこのイエスさまのお言葉を疑ってしまうのです。疑いは、あきらめを生みます。神の恵みの支配が実現していると信じることを、神の正しさが貫かれると信じることをあきらめてしまうのです。

しかしこのやもめはあきらめませんでした。正しい裁きをまったく期待できない中で、それでも正しい裁きを求めて訴え続けました。それはこの裁判官が心を入れ替えるのを期待したわけではなく、このやもめは、「寡婦の権利を守る」と約束された神ご自身がみ業を行ってくださることを期待してあきらめなかったのです。

イエスさまはこのやもめの姿を通して、神の恵みの支配が実現していないかのように思える現実の中で、私たちがあきらめないで、「気を落とさずに絶えず祈る」よう命じているのです。このやもめのように、私たちもあきらめないで、神ご自身がみ業を行い、正しい裁きを行ってくださることを期待して、気を落とさずに絶えず祈り続けていくのです。

5. まして神は

この裁判官は、やもめの訴えをしばらくの間は取り合おうとしませんでした。《しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』》(4-5)。裁判官は、弱い立場のやもめの権利を守ろうと心を入れ替えたのではありません。これ以上ひっきりなしにやって来られたら自分の評判が落ちて、裁判官人生に致命的な影響があるかもしれないから、と考えたに過ぎないのです。

譬え話を語り終えたイエスさまは、《この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか》(6-7)と解き明かします。ここでイエスさまは不正な裁判官に神を重ねています。不正な裁判官ですら、自分の利益のために、あきらめないでひっきりなしにやって来るやもめの訴えを聞いて裁判を行ったのであれば、まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わないはずがない、と言っているのです。このやもめがユダヤ人であり、神によって選ばれた神の民の一員であったように、私たちも恵みによって選ばれ、イエス・キリストの十字架による救いに与り、洗礼を受けて神の民とされています。不正な裁判官が見ず知らずのやもめの訴えを聞くのであれば、ましてイエスさまによって私たちの父となってくださったなる神が、日夜祈り求め続ける私たちの訴えを聞いてくださらないはずがあるでしょうか。

6. 気を落とさずに祈ることへの招き

私たちの祈りを神は必ず聞いてくださいます。イエスさまによって神が私たちの父となってくださり、私たちを神の子としてくださったからです。ですから私たちは気を落とさずに絶えず祈り続けられます。イエスさまが再び来て、神の恵みの支配が完成するそのときまで、なお困難な現実が続くとしても、私たちは落胆せずに祈り続けるのです。最後の8節でイエスさまは《言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか》と言います。神が必ず裁いてくださり、救いを、その恵みの支配を完成してくださることに信頼して、あきらめずに絶えず祈り続けるよう私たちを招いているのです。気を落とさずに祈り続けて生きる中でこそ、私たちはすでに神のご支配が実現していることを信じる者とされ、神の恵みの支配の完成に備えて生きる者とされていくのです。だから私たちは落胆しそうな現実にあっても、なお気を落とさずに祈り続けるために戦っていくのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまが神の愛による支配を地上にもたらしてくださったことを感謝します。神の愛のご支配が完成することを待ち望みつつ、気を落さずに祈り続けられるよう私たちに力を与えてください。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン