20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
ルカによる福音書6章20節から6章の終わりまで、イエスさまの説教が続きます。この内容は、マタイによる福音書5-7章の「山上の説教」とかなり重なっています。マタイのものが、山の上で語られたことから「山上の説教」と呼ばれるのに対して、ルカのものは、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」
(6章17)とあることから「平地の説教」と呼ばれます。
さて、この説教の冒頭は、「山上の説教」と同じく、「幸い」についての教えです。マタイでは、「このような人々は幸いである」という八つの項目が語られていますが、ルカでは幸いが20-22節に四つ語られています。そして、24-26節には、マタイにはない「このような人々は不幸である」という教えが四つ語られています。この幸せと不幸はそれぞれ対応しています。「貧しい」に対して「富んでいる」、「飢えている」に対して「満腹している」、「泣いている」に対して「笑っている」、「人々に憎まれる」に対して「すべての人にほめられる」です。
イエスさまはまず「貧しい人々は、幸いである」
(20b)と語り、それに対して、「富んでいるあなたがたは、不幸である」
(24a)と言います。しかしイエスさまは単純に、経済的に貧しい人は幸いだが、金持ち、富んでいる人は不幸だ、と言っているのではありません。貧しい人々が幸いであるのは、神の国が彼らに与えられており、彼らが神の恵みの中を生きているからです。この人たちに向けられた「神の国はあなたがたのものである」
(20b)という言葉のとおりです。それはまさにイエスさまの弟子、信仰者にこそ与えられる幸いなのです。
一方、「富んでいる人は不幸である」と言われています。それは、「あなたがたはもう慰めを受けている」
(24b)からです。この「受けている」という言葉は、既に十分に受けていて、これ以上はいらない、という意味です。この人たちは神に慰めてもらなくても、自分の持っているもの、財産で十分な慰めがあり、安心や平安を得ています。つまり、神に祈り求めようという気持ちがないということです。これはもう信仰を持っているとは言い難い姿勢です。信仰、すなわち神を信じるとは、神に依り頼み、信頼して、神からの慰めを求めて生きることだからです。
神からの慰めを求めなくなった信仰者はまことに不幸です。何か災いが起るという意味での不幸ではなくて、その人の目が神を見失い、この世のことしか見えなくなっていることが不幸なのです。逆に貧しさの中でひたすら神からの慰めを、守りと導きを求めるところにこそ、この世の事柄からの自由が、束縛からの解放が与えられます。神の国、神の恵みの下で生きるところに、この世の力からの解放があるのです。貧しい者が幸いであるのはそのためです。
この「平地の説教」の第二、第三の事柄として、イエスさまは「今、飢えている人々は、幸いである」
(21a)と言います。それと対になるのは「今、満腹している人々、あなたがたは、不幸である」
(25a)です。また「今、泣いている人々は、幸いである」
(21c)とも言います。それと対になるのは、「今、笑っている人々は、不幸である」
(25c)です。今、乏しさの中で苦しみ、悲しみに泣いている人々に、イエスさまは「あなたがたは幸いである」と言い、今、満腹し、満足し、喜び、笑っている、そういう人々に「あなたがたは不幸だ」と言うのです。
私たちは信仰者の幸いにあずかって生きる者となることを、真剣に求めていかなければなりません。そのために私たちがまず成し遂げなければならない課題は、自分が富んでおり、満腹しており、笑っていられればそれでよい、という不幸な思いを捨てることです。加えて、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々に目を向けて、よく見ることです。そして、神の僕として、彼らのために自分に何ができるのかを探っていくのです。
ところで、イエスさまは「今、飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今、泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」
(21)と言い、それに対応して「今、満腹している人々、あなたがたは不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今、笑っている人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」
(25)と言いました。「今」を生きている人々に、「将来」を見つめさせようとしているのです。今は、富んでおり、満腹しており、笑っている人こそが幸いです。しかし将来がどうなるかを考えるならば、貧しく、飢えており、泣いている人こそが幸いなのです。将来を見すえてこそ、本当の幸いと不幸とが分かるのです。
その将来というのは、私たちのこの世における人生の中のいつか、ではありません。地上の人生が終わった後のことです。そのことは、第四の幸いと不幸について語っている23節に、「天には大きな報いがある」
と語られていることから分かります。「報い」には良い意味と悪い意味がありますが、ここでは良い意味で使われています。この世の人生が終わり、天において、神のみ前に出た時に、神が報いてくださるのです。この天における神の報いによって、今の貧しさ、飢え、悲しみが、満腹と笑いとに逆転するのです。
さらに、これらの話から私たちが読み取るべきことは、死んだ後の世界はどうなっているか、ではありません。今のこの地上における人生と人の目に見える現実だけがすべてという生き方は、愚かで、不幸だ、ということです。今の人生の目に見える現実のみを見つめるならば不幸としか思えない状況にある人が、肉体の死を経て神のみ前に出る将来に与えられる救いに目を向けることによって、本当の幸いを知り、それにあずかることができるのです。また、今の人生の現実において幸いであると誰もが思う人も、その目に見える幸いに依り頼み、そこに幸いの根拠を求めていくなら、将来、神が私たちそれぞれに人生の終わりを宣言なさるとき、その幸いは失われ、究極の不幸に陥るのです。
このことは、第四の幸いと不幸についてのみ言葉によってはっきりします。22節に「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」
(22)とあり、これと対応して、「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」
(26)とあります。人々に憎まれることとほめられることが対照されていますが、それは自分の罪によって憎まれる、自分の業績によってほめられるということではありません。「すべての人にほめられる」とは、イエスさまを信じる信仰を曖昧にして、人々に迎合し、神のみ心に従うよりも人々が喜ぶような生き方をすること、そのことによって人々からほめられるということです。それと対になっている「人々に憎まれる」とは、人々に憎まれ、共同体から追い出されるほどまでに、人の子(イエスさま)を信じる信仰に生き、それを貫くことなのです。
妥協なく信仰を貫いて生きるならば、人々に憎まれ、汚名を着せられるかもしれません。しかし、その時あなたがたは幸いだとイエスさまは言います。それは、この世の命と人生を超えて私たちを支配し、導き、天において大きな報いを与えてくださる神がいるからです。その神の目に見えない支配を信じて、この神との交わりに生きるところに、信仰者の幸いが見えてくるのです。
この幸いを私たちに与えるために、イエスさまは人の子としてこの世に来られました。このイエスさまの苦しみと十字架の死とによって私たちは罪をすべて赦され、神の前に安心して出られるようになったのです。私たちはそのことを心に刻み、神が肉体の死を超えた彼方で新しい命を与えてくださることを信じ、そこに希望を置いて、今のこの地上の人生を、イエスさまに従う者として歩むことができます。そこに、本当に幸いな人生が与えられていくのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御子のあがないにより聖徒たちを祝福し、私たちに救いの希望を与えてくださいました。私たちの前に備えられた人生を勇敢に歩み、聖徒たちと共に栄光の冠にあずかることができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン