杉並聖真ルーテル教会

死者の復活について

27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

1. 私たちにとって「分からないこと」

死後はどうなっているのか。死後の世界はあるのか、ないのか。あるとして、人間は死後すぐに甦るのか、それとも終末の時に一斉に甦るのか。聖書もその点はいろいろな書き方をしていると思います。

死の間際のことも分かりません。死の直前に信仰を告白したとか、若き日の信仰に立ち帰ったという話はよく聞きます。また、何も話せずとも神と和解することも、その逆もあるでしょう。本人でさえも最期のことは分からないのですから、まして死後のことは、想像するしかありません。

コヘレトの言葉3章1-2節に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、・・・・・・・」とあり、そしてその後の11節に「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」ともあります。つまり人間には「永遠」を思う心が与えられているけれども、「永遠」は分からないということです。私たち人間は、神の定めた時の中を生きているに過ぎず、誰も自分の生まれた時を知らないし、死ぬ時も知らないのです。ですから、当時のユダヤ人の間でも、人間の死後の世界に関しては意見が対立していました。現代の私たちも同様です。

2. サドカイ派

さて、冒頭の27節に登場する「サドカイ派の人々」(27)とは、エルサレム神殿の祭司階級や、保守的な貴族階級に属している人々です。ローマの支配も、自分たちの支配体制さえ壊さなければ文句は言わない。民衆も神殿税さえ納めていれば良い。そして、神の言葉はモーセが書いたとされる「モーセ五書」だけを認める。そこに記されていないから復活は認めないという人々です。庶民からなるファリサイ派の人とはことごとく対立している人々です。

3. 彼らの問い

その彼らが、長男が結婚して子を残さずに死んだ場合の、現実には起こり得ない難題を、イエスさまに突き付けました。背景にあるのはレビラート婚と呼ばれる申命記25章の規定です。そこにはこうあります。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」(25章5-6節)。

つまり、息子をもうける責務を果たさずに長男が死ぬと、次男が代わりに兄嫁に息子を産ませ、長男の名をつけ長男の名を残さねばならない、というものです。しかしサドカイ派の人々は、問題をすり換えます。長男の嫁は夫とその六人の弟それぞれと結婚しましたが、息子を得られず、夫も兄弟もすべて死に、その女性も死にました。サドカイ派の人は、復活があるとすれば、元々長男の嫁だった「その女はだれの妻になるのでしょうか」(33)と、イエスさまに問いかけたのです。もちろん、これは人間の復活を否定するための議論のための議論です。イエスさまは、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」(34-35)、と答えました。結婚は、この世の秩序だというのです。では、嫁ぐことも死ぬこともない次の世に、誰が入れるのでしょうか。

4. 私たちにとっての救い

そこで、「救い」について考えたいと思います。私たち信仰者は「救われた」と言いますが、その「救い」は「この世」の中に留まることなのか、それとも「かの世」にまで及ぶのか。「この世」から始まって「かの世」に続くことなのか。それも確とは分かりません。また、救いの体験を「新しい命を与えられた」とか「永遠の命を与えられた」とか言う場合もありますが、その「命」と、私たちが今生きている肉体の「命」とはどのような関係にあるのでしょうか。

洗礼式で必ず読まれるローマの信徒への手紙6章3-4節は、「復活」についてこう言います。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」

洗礼は、キリストに繋がることです。それは、キリストと共にそれまでの自分の命に死に、キリストの御父の栄光によってキリストが死者の中から復活させられたように、私たちも「新しい命」に新たに生きるということです。この「新しい命」はこの世において既に始まり、肉体の死を超えて復活の日まで続きます。

5. イエスさまに繋がる

イエスさまは37節で「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」と言いました。これを新約の信仰で言い替えると、キリストに結ばれた者は死者の中から復活させられ、そこで生きている、となります。「『柴』の個所」とは、出エジプト記3章のことです。イエスさまにとってアブラハム、イサク、ヤコブは過去の人物ではありません。この世においては死んでも、「かの世」で彼らは今も生きているのです。それは、彼らも生ける神である「主」と信仰において繋がっているからです。その「主」とは、私たちが信じている「主イエス・キリスト」です。

そして行き着くのが、38節の「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」という言葉です。前半の「生きている者」は、現在地上に生きる人間のみを指すものではありません。聖書において神は永遠であり、神と信仰による交わりを持った者の命は永遠なのです。肉体の命は滅んでも、永遠に生きる神との交わりを信仰において生きる命は死なないのです。

6. すべての人

私たちは誰も、洗礼を今はまだ受けていない親族があり、洗礼を受けた後に教会を離れた親族を持っているのです。そこで、問題となるのが、38節後半の「すべての人」をどう解釈するかです。ある人は、イエスさまに「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」(35)こそ、「すべての人」であると解釈します。他の人は、地上に生きる、またかつて生きた「すべての人」と解釈します。

しかし、この二つの解釈は、どちらも間違いではありません。なぜなら、キリストはただ信仰者にとっての主ではない。信者であれ未信者であれ、知っているか知っていないかは別として、万物の隠れた根拠はキリストだからです。やがてそのことが万人にも分かる日が来るでしょう。信仰者はそのことを先取りして認識しているのです。そういう意味で、誰も彼もキリストのもの、神のもの、は正しいのです。恵みの選びを人間が限定することはできません。

7. 神によって生きている

残る問題は、「すべての人は、神によって生きているからである」の意味ですが、パウロが解き明かしています。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ローマ6章10-11)。

「神に対して生きている」が二度も出てきます。そう生きるために、イエスさまは、私たちの罪をすべて背負われたのです。私たちの罪に対する神の裁きをイエスさまが私たちの代わりに十字架の死によって受け、復活して罪の贖い主として私たちと新たに出会いました。それを通して、イエスさまは私たちを「神に対して生きる」者としました。信仰者は、神の恵みによって「イエスは主である」と告白できます。聖霊を与えられて、信仰の告白を与えられたのです。私たちがそうなれたのは、ただ恵みによって「キリスト・イエスに結ばれた」からです。聖霊の与える信仰によって結ばれたのです。結ばれたからこそ、この命、この人生は本来神のものであることを知り、自分に対してだけ生きていた者が「神に対して生きる」者になることができました。神を知る、知らないに関わらず、人間は本来神に向かって生きるべきなのです。その中で私たち信仰者は、聖霊によって信仰を与えられ、キリスト・イエスに結ばれた者として「神に生きる」者、「神に対して生きる」者とされているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまの生涯と聖書の解き明かしによって、復活の希望を示してくださったことを感謝します。私たちも「わたしはあなたの神である」という恵みの御言葉を信じて生き抜くことができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン