5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。 6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
冒頭に、「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると」
(5)とあります。ユダヤ人にとってエルサレム神殿は信仰の中心であり、拠り所でした。しかしイエスさまは、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」
(6)と言います。この予告は、紀元後70年に現実しました。ユダヤ人がローマ帝国に対して起こした反乱がローマ軍によって鎮圧され、エルサレムは滅ぼされ、神殿も破壊されたのです。
このイエスさまの言葉を聞いていた人たちが尋ねました。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」
(7)。人々が尋ねたのは神殿のことですが、イエスさまが本当に見ているのは、「神殿の終わり」ではなく、「世の終わり」、「終末」なのです。
イエスさまは「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」
(8)と答えます。世の終わりを意識する出来事が起こると、メシアを名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言います。私たちは不安を煽る人にも、安全安心を喧伝する人にも、「惑わされないように気をつけ」、彼らに「ついて行ってはならない」のです。
イエスさまは続けます。「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」
(9)。ロシアによるウクライナ侵攻も、ハマスとイスラエルの戦争も、終わりません。私たちはまさに今、イエスさまが言われた通り、戦争は必ず起こるという現実に直面しているのです。しかしイエスさまは、戦争は必ず起こるが、「世の終わりはすぐには来ないから」、「おびえてはならない」と言います。
戦争によって、あるいは11節で言われているような地震や飢餓や疫病によってではないなら、どのようにして世の終わりは来るのか。それが21章15節以下に語られます。27節に「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」
とあるように、イエスさまが再び来るときに、世の終わりが来るのです。イエスさまは、私たちの罪をすべて背負って十字架に架かって死に、三日目に復活し、天に昇りました。そのイエスさまが再び私たちのところに来る。そのとき、世の終わりが来るのです。それは、私たちの救いの完成のときです。私たちはすでにイエスさまの十字架と復活、昇天によって救われ、罪の支配から解放され、神の恵みの支配の下に入れられています。けれども、まだ私たちの目に見える形では実現していません。しかし、世の終わりにイエスさまが再び来て、イエスさまによる救いが完成するとき、神の恵みの支配は目に見える形で実現するのです。ですから、私たちはおびえることなく、世の終わりが来て救いが完成するのを待ち望んで生きるのです。
また、キリスト者だけが経験することが語られています。「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」
(12)。キリスト者は、イエスさまを信じたことで迫害を受けます。「会堂や牢に引き渡し」は、ユダヤ教からの迫害を指し、「王や総督の前に引っ張って行く」は、ローマ帝国からの迫害を指しています。実際、キリスト教の2000年の歴史において、イエスさまを信じるゆえに迫害を受けてきた人たちは大勢いたのです。
私たちは今、この日本社会で、イエスさまを信じるゆえにほかの宗教からの迫害や政治的な迫害を受けることは、ほとんどないでしょう。とは言え、日本ではキリスト者がマイノリティで、私たちは日々、学校や職場や家庭で、無理解や無関心に直面します。しかし私たちはそれを忍耐して歩むのです。
イエスさまは、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」
(13)、と言います。迫害を受け、会堂や牢に引き渡されても、あるいは王や総督の前に引っ張って行かれても、それは証しをする機会なのです。ただし、その機会を捉えて、そこでイエスさまを証ししなさい、という勧めではありません。「機会となる」とは、「結果としてこうなる」という意味です。イエスさまは「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」
(14)と言いますが、迫害を受けたことが結果として証しになるのだから、迫害を受けたときにどのように弁明しようかと考えて準備する必要はなく、むしろ準備しないと決意すべきなのです。イエスさまはさらに、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」
(15)と言います。そのときには、語るべき言葉や必要な知恵が、イエスさまから授けられるのです。
たった一人でも、学校や職場や家庭にキリスト者がいること自体が、結果として、イエスさまを証しすることになります。キリスト教や教会について話す機会を得たときも、どう話したら良いかと悩む必要はありません。イエスさまに言葉と知恵を授かり、ひらめきが与えられるのです。
イエスさまはさらに、こう続けます。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」
(16)。これは、キリスト者でない家族や友人が裏切るのではなく、キリスト者である家族や友人が裏切る、という意味です。世の終わりに至るまで、キリスト者は迫害を受け、果てはキリスト者同士の裏切りにも直面し、そのために殺される者もいるのです。しかしイエスさまは「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」
(19)と諭します。「殺される者もいる」と言いつつ、「命をかち取りなさい」と言うのは矛盾しているように思えます。しかしかち取るべき「命」とは、肉体の死によって失われる命ではありません。イエスさまによる救いにあずかった人たちに約束されている命です。私たちは世の終わりが来るまで、この地上の生涯において、キリスト者として苦しみを受けるときも忍耐して歩んでいきます。その私たちに、世の終わりが来て、救いが完成するときに、復活と永遠の命が与えられるのです。
世の終わりに至るまで、キリスト者であるゆえに苦しみを受けるときも私たちが忍耐して歩めるのは、自分が努力したからではありません。イエスさまの「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」
(18)という約束があるからです。「髪の毛の一本も決してなくならない」とは、神の絶対的な守りを表現する慣用句です。神は私たちといつも共にいて、私たちを守ってくださるのです。迫害を受けるときも、大切な人に理解されないときも、同じキリスト者の裏切りに遭うときも、そして死を迎えるときも、死を迎えた後も、神は私たちを守っていてくださいます。この神の絶対的な守りの中で、私たちは世の終わりが来るまで、救いの完成を待ち望みつつ、キリスト者ゆえに受ける苦しみの状況から逃げることなく忍耐して歩んでいくのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまの復活において私たちに対するあなたの愛と信実を示してくださったことに感謝します。この世のさまざまな苦しみの中にも救いの約束を信じて、信仰と希望と愛のうちに歩んで行けますように。救いイエスさま・キリストの御名によって祈ります。アーメン