36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
今日から待降節、アドベントに入りました。クリスマスまでのこの期間は、キリストの到来を心に留める期間です。それは馬小屋に生まれたイエスさまの第一の到来だけでなく、王の王、主の主として来られる第二の到来、キリストの再臨を覚える期間でもあります。
神の子が血肉をもって生まれ、世の罪を贖うために十字架について死に、三日目に復活し、「あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」
(ヨハネ14章3)と約束した上で、天に昇りました。けれども、今日の箇所では、迎えられる日について、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」
(36)と言っています。「子」とは、神の子であり人の子であるイエスさまを指します。イエスさまは父なる神に「いつ終わりが来るのか」と尋ねません。世の終わりは父の決めることであって、イエスさまは父にすべてをゆだねているからです。
ここに私たちは、神にゆだねるという信仰の手本を見ます。終わりがいつ来るのかとか、神を信じる者にまでどうして不幸が降りかかるのか、私たちには分からないこととか、答が与えられないことが多くあります。しかし、神が私たちを愛してくださっていることを信じて神にゆだねる信仰の手本が、ここに示されているのです。
私たちは、主人を待つ僕たちです。自分の主人が帰ることは知らされていても、それがいつかは知らされていません。それは、私たちが全生涯をかけて主人の帰りを待ち望む者であるべきだからです。「だから、目を覚ましていなさい」
(42)。忠実で賢い僕として、主人の留守の間その家をしっかりと守り、主人がいつ帰って来ても良いように備えていなさいということです。
この世界は神の意志によって支えられています。イエスさまが再び来るとき、今は隠されているその栄光と力とが顕わになり、神の支配が完成します。そしてこの時、この世界は終わります。つまり、神の支配の完成こそがこの世の終わりです。それを信じて待つことが、イエスさまの再臨を信じるということなのです。そして、逆にそれを信じない者は、この世界は、神の導きなどではなく、私たち人間の思惑によって動いているのだ、だからその中で自分も、自分の思い通りに、自分がしたいように生きるのだ、と考え行動します。ここに、忠実な僕と悪い僕の違いがあります。そして、それこそが、目を覚ましている者と眠り込んでいる者との違いです。
今日の箇所では、その時に備える心構えとして、イエスさまが三つのたとえを語ります。洪水のたとえと、二人の人のたとえと、泥棒のたとえです。
第一に、イエスさまは「ノアの洪水」を引き合いに、再臨の日が突然来ることを説明します。創世記6章から9章にかけて描かれているノアの時代の大洪水は、堕落した人類への裁きであるとされています。その日に備えて、神の指示に従って箱舟をせっせと築いたノアの一家とそこに入れられた動物たちは救われました。後に教会は、その箱舟をキリストの体である教会を予告するものと受け止めました。
しかし、当時の人々は、この裁きの到来を信じませんでした。彼らが安穏と暮らしていたところに、突如として洪水は訪れたのです。イエスさまの再臨による世の終わりもそのように起ると告げられます。ここで大切なことは、ノアは神からの示しを受けて、どこにも水などない野原の真中で巨大な箱舟を造っており、人々はそれを見ていたということです。つまり、彼らには、終わりの到来の徴が与えられていたのです。しかし、彼らはそれを見ながら、愚かしい行為だとしか思いませんでした。
さて、「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」
(37)とありますが、これは人が生きていくために必要なことです。つまり、当時の人々は日々の自分たちの暮らしにのみ一生懸命だったのです。そういう日常の生活の中で、徴が与えられていたにもかかわらず、人々は、神の意志によってこの世は終わり、すべてのものが滅びるのだということを、つまり神の支配を見つめようとしませんでした。神が主人であり、自分たちはその僕であることを思わず、自分が主人であるかのように錯覚してしまった。そうして、魂が目覚めているのでなく、眠り込んでしまった。そのために彼らは滅びてしまったのです。
いつもと同じと思っていたある日が突然、特別な日となることは、2011年3月11日の大震災を思えば、理解できるでしょう。再臨の日もこれと同じです。
第二のたとえは、二人の人にまつわる話です。まず、畑にいる労働者が例に挙げられています。地上では条件がまったく同じだった二人の男に、正反対の運命が訪れました。「一人は連れて行かれ」
、つまり天に迎え入れられ、「もう一人は残される」
(40、41)。この両者を分けるものは、イエスさまの再臨に備えて生きていたかどうか、ただその一点です。
次に、臼をひいている二人の女についてです。当時、麦を石臼でひいて粉にするのは女の仕事でした。一緒に力を合わせて働いていた二人のうち、一人は天に引き上げられ、一人は地に残されました。そして、自分がどういう人生を歩んできたか、神と共に歩んだか、神なしの人生を選んできたかを悟るのです。イエスさまは、「だから、目を覚ましていなさい」
と言います。これは、自分の中に神の働く余地を持っているということです。
三つ目のたとえは、「泥棒」に関するものです。泥棒は公然とは盗みを行いません。いつ盗みに入るかを教える泥棒はいないでしょう。人が油断している時を見計らって、不意を襲うのです。新約聖書の随所で、再臨は盗人のようにやってくることが語られています(Ⅰテサロニケ5章2-6、Ⅱペテロ3章10、黙示録3章3、16章15)。
マタイ24章の全体を読むと、イエスさまは、「世の終わりが近い」ということと、「この世はすぐには終わらない」ということと、矛盾する二つを語っています。ですが、この両方のことが同時に語られるところに、イエスさまが教えておられることのポイントがあります。つまり、私たちは、イエスさまの再臨によるこの世の終わりを待つ者なのです。待つとは、それが近いことを気に留めておくということです。それが「目を覚ましている」ということでもありました。しかし、そのことによって、私たちの日々の歩みがおろそかになったり、日常の生活に手がつかなくなったりすることは、イエスさまの本意ではありません。
私たちは、終わりを見つめるからこそ、この世界を、この人生を、今日という日を、誠実に生きるのです。それは、私たちが見つめ、待っている終わりが、単なる破局、滅びではなく、イエスさまの再臨による神の恵みの支配の完成だからです。私たちの、この世における労苦が、そこでこそ報われるからです。この世界は、そのような神の支配の完成へと向かっていることを信じるからこそ、私たちは今この時を、忍耐と希望に生きることができるのです。
「目を覚ましている」ということが、いつも立派に良い行いをしていなさい、ということであるなら、私たちには希望がありません。今、イエスさまの再臨があるなら、それは私たちの絶望です。しかし、イエスさまはなぜこの世に来られ、そして十字架にかかられたのでしょうか。それは、罪人を救うためです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
(マタイ9章13)。そこに大いなる希望があります。つまずきやすい私たちのような者でも招かれているのです。このことを忘れず、イエスさまに感謝を献げることこそが、イエスさまを迎えるうえで何よりの準備であることを心に刻みましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまがふたたび来て、救いの恵みを完成させてくださることを私たちは待ち望んでいます。眠り込まずに、目を覚ましてその日を待てるよう私たちの日々の生活を導いてきださい。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン