杉並聖真ルーテル教会

洗礼者ヨハネの問い

2ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 6わたしにつまずかない人は幸いである。」 7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。

10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、

あなたの前に道を準備させよう』

と書いてあるのは、この人のことだ。 11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

1. 荒れ野で叫ぶ声

先週登場した洗礼者ヨハネが、今週も登場します。まず、先週の箇所(マタイ3章1-12)を振り返ることから始めましょう。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」(3章1)。ヨハネは神が審判を下す終わりの日が差し迫っている、と信じていました。そして、「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」(3章7-10)。このように、ヨハネにとって来るべきメシアとは、神の権威をもってこの世界に君臨し、この世の悪を正しく裁くことのできる力ある王です。

ヨハネは、来るべきメシアについて、こう語ります。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3章11-12)。ヨハネは脱穀のたとえを用いて語っています。農夫が箕をもって麦を空中に放ると風がもみ殻を吹き分けます。そして麦は倉に入れられ、殻は焼き払われます。最終的な神の裁きも、メシアによって、そのように行われると言うのです。この関連で語られた「聖霊と火による洗礼」の「火」は明らかに裁きの象徴です。そして、「聖霊」はと言うと、実は「霊」と「風」とは同じ単語です。ですから、ヨハネが意図していたのは「聖なる風」ということです。そうすると、脱穀のイメージと重なり、もみ殻と麦を吹き分ける風が連想されます。「聖霊」も裁きの象徴であることが分かります。

要するに、ヨハネが語っているメシア像は、あくまでも最後の裁きを行う方としてのメシアでした。そして、ヨハネが「この人こそ来るべきメシアだ」と信じていた人物こそ、ナザレのイエスさまだったのです。

2. 来るべき方はあなたですか

やがて、ヨハネは捕らえられて獄中の人となりました。その顛末はマタイ14章に記されています。要約すると、ヨハネは領主ヘロデの罪を指摘し、悔い改めを求めました。その結果、彼は投獄され、ヘロデは何もなかったかのように平和に元のままの生活をしていました。それはヨハネにとっては想定の内だったことでしょう。それがこの世の実情であるからこそ、メシアは来るのです。この世は正しく裁かれなくてはなりません。この世の悪の力によって投獄されたヨハネは、いよいよイエスさまへの期待を膨らませたに違いありません。イエスさまはどのような行動を起こすのか、神の裁きの風はどのように吹くことになるのか、と。

ところが、いつまで経っても、何一つ期待どおりのことは聞こえて来ません。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」(11章2)。ヨハネは何を聞いたのでしょう。イエスさまの周りにはいつでも悪霊に憑かれた人や病気で苦しむ人が集まっていて、彼らをいやしているらしい。それに、罪人や徴税人たちを集めては一緒に食事をしているらしい。挙句の果てには「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださる」(5章45)というような教えを説いているとのこと。

いったい麦と殻を吹き分ける風はどうしたのか。殻を焼き払うはずの火はどこにあるのか。イエスさまが神の裁きに心を向けさせたという話は聞こえて来ません。獄中にいるヨハネは揺らぎました。それが今日の福音書で読まれた場面です。「そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」(11章2-3)。

3. 見聞きしていることを伝えよ

その質問に対して、「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」(4-6)

イエスさまはヨハネの弟子たちに、自分の言動と周囲の人々の反応をヨハネに伝えるように言いました。ヨハネはメシアの到来のために道を準備するために遣わされた人でした。ヨハネが、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3章2)と宣べ伝えたのは、メシアの道を準備するためでした。そして、準備を終えた彼は、社会から消えて獄中にいるのです。イエスさまは彼の弟子たちに「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と答えたのです。ヨハネが道を準備したその先にいったい何が起こっているのか。ヨハネの弟子たちはまず、そこに起こっていることをよく見、よく聞かなくてはなりません。

ところで、イエスさまの言葉の背景には今日の第一日課、イザヤ書35章5-6の預言があります。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」

このような癒しの描写をもって語られていることは、たとえ今は苦しみの中にあったとしても、最終的に神の憐れみが目に見える形でこの世界に現れるということです。確かに、この世界は最終的に正しく裁かれなくてはなりません。しかし、最終的な裁きの時が、最終的な救いの時でもあると、私たちは心得るべきです。いずれにしても、神が神としてご自身を現されるということです。そして、最終的に現される神の愛と憐れみ、神の救いを、もうあなたたちは目にし始めている、既に耳にしているではないか。そうイエスさまは気づきを促しているのです。彼らはよく見、よく聞かなくてはならないのです。

ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えました。そもそも悔い改めとは何でしょう。一般的には神に罰せられないように、悪いことを改めて良い人間になることです。しかし、聖書の悔い改めとは「方向を変える」ことです。神を離れた生活から方向転換して、神に立ち帰ることです。イエスさまのたとえ話(ルカ15章)で言うならば、父のもとを離れて放蕩していた息子がボロボロの姿のまま父のもとに帰ってきたように、そのように神のもとに帰ってくることなのです。

そして、神のもとに帰るのは、まことに神を神として、神と共に生きるためであり、神の愛の内を生きるためです。イエス・キリストは、神が自らを現すために遣わされたメシアとして、来るべき方として来られたのです。ならば、そこには既に「始まって」いることがあるのです。

確かにこの世界は正しく裁かれるべき世界です。不義がこの世界を支配しています。正義はねじ曲げられています。正しいヨハネが投獄されるようなことが今日においても起こります。不当な苦しみがある。理不尽な悲しみがある。暗闇が依然として覆っている世界です。しかし、まだ夜が明けていない暗闇の中に、既にメシアは来られたのです。ですから、既に「始まって」いることがあります。この教会にも見ることができます。ここには神のもとに立ち帰って、礼拝をささげている人々がいます。ここには神の赦しがあり、私たちの内に働く神の回復の御業があります。私たちは既に神の憐れみに触れながら生活しているのです。その意味で既に天の御国を味わい始めているのです。私たちは御国の始まりにしっかりと目を向けて生きていきましょう。

祈りましょう。天の父なる神さま。この世界は、あなたは既に救い主を与えてくださり、あなたの良き業がこの世にも私たちの人生にも既に始まっていることを感謝いたします。この信仰をもって歩んでいくことができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。