5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
きょうの箇所が含まれるルカ17章1-10節の段落は、小見出しに「赦し、信仰、奉仕」とあるように、ほかの福音書では別々の箇所に分けて語られているイエスさまの教えが集められています。1-2節では、誰かをつまずかせることについて、3-4節では、自分に対して罪を犯した人を赦すことについて、5-6節では信仰について、そして7-10節では、僕について語られています。
冒頭1節に《イエスは弟子たちに言われた》
とあるように、これらのイエスさまの教えは、すべて弟子たちに向かって語られています。さらに5節には《使徒たち》
という言葉が出てきます。ここで語られているイエスさまの教えは、教会が誕生した後の時代に使徒とされて歩む弟子たちに向けて語られているのです。教会の交わりの中でイエスさまを信じ、イエスさまに従っていこうとする私たちが、どのように生きたら良いのかを教えているのです。
まずイエスさまは1節で《つまずきは避けられない》
と言っています。「つまずき」とは、もともと「罠」とか「落とし穴」という意味の言葉です。私たちは信仰生活の中で、罠にはまったか、落とし穴に落ちたかのように、信仰の活力、信仰者として生きる元気を失ってしまうときがあります。イエスさまは信仰者であれば誰もがそれを避けることはできないと言い、《それをもたらす者は不幸である》
(1)と言います。ここでは教会の兄弟姉妹がほかの兄弟姉妹をつまずかせることを指しています。イエスさまは、《これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである》
(2)と言いました。小さい者とは信仰において弱さを抱えている者、傷つきやすさを抱えている者ということでしょう。教会において他の兄弟姉妹を、とりわけ傷つきやすさを抱えている者をつまずかせて、信仰の活力を失わせてはならない、とイエスさまは戒めているのです。誰もが信仰において弱さや傷つきやすさを抱え、ほかの人からつまずきを与えられる者であり、しかし同時に誰もが自分の信仰が強いかのように思って上から目線でほかの人の信仰を評価したり裁いたりして、ほかの人につまずきを与えてしまう者なのです。イエスさまはそのような私たちに対して「不幸である」と言っているのです。
続く3節でイエスさまは、《もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい》
と言っています。教会の交わりは、お互いの罪を見て見ぬふりをする交わりではなく、お互いの罪に向き合う交わりだからです。そのように言われると、私たちはどう相手の罪を戒めたら良いのだろうかと考えてしまいます。そこで、イエスさまは《一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい》
(4)と言います。一日に七回罪を犯して、七回悔い改めたとしても、それは、その場限りの、口先だけの悔い改めであるかもしれません。しかしそうであっても赦しなさい、とイエスさまは言っているのです。マタイによる福音書で、ペトロがイエスさまに何回まで相手の罪を赦したら良いかと尋ねたとき、イエスさまは《七の七十倍までも赦しなさい》
(18章22)と言いました。それは無制限に赦しなさい、という意味です。ここでも同じく、真摯に相手に向き合うべきことについて、焦点が当てられています。
相手をどこまでも赦して生きるときにこそ、本当に相手の罪を戒めることができるし、相手を悔い改めに導くこともできるのです。そうでなければ、どれほど言葉を選んでも、相手を裁くことになりかねません。イエスさまは私たちが自分に対して罪を犯した相手を赦して生きるよう、それもどこまでも赦して生きるよう求めています。言い換えれば、相手を愛して生きるよう求めているのです。ペトロの手紙一4章8節に《何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです》
とあります。
このように1-4節では、教会の交わりにおいて私たちがほかの人をつまずかせ、その信仰の活力を失わせることのないように、また自分に対して罪を犯した人をどこまでも赦すように教えられています。しかし私たちはこれらのイエスさまの教えを守ることは不可能と思わずにはいられません。このイエスさまの教えを守るためには、今よりももっと大きな信仰が必要だと思うのではないでしょうか。ですから5節で弟子たちはイエスさまに《わたしどもの信仰を増してください》
と言いました。相手をつまずかせず、相手をどこまでも赦して生きるためには、今の信仰では足りないから、もっと信仰を増やしてくださいと願ったのです。しかしイエスさまはこのように言われました。《もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう》
(6)。ここでイエスさまが問題にしているのは、信仰の有無です。そして信仰があれば、ある奇跡が起こります。桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命じれば桑の木が従うという奇跡より、はるかに大きな奇跡が起こります。それは、教会の交わりにおいてほかの人をつまずかせず、自分に対して罪を犯した相手をどこまでも赦すという、私たちには到底できないように思える奇跡が起こるということです。
では、信仰とは何でしょうか。このことが7節以下に、イエスさまが語った僕の話を通して示されます。「僕」と訳されていますが奴隷のことです。主イエスは弟子たちにとって身近な、分かりやすい主人と奴隷の関係を用いて語りました。畑を耕すか羊を飼うかする奴隷が畑から帰って来たとき、その奴隷の主人は、《すぐ来て食事の席に着きなさい》
(7)とは言わないだろう、むしろ夕食の用意をし、主人が食事を済ませるまで給仕するよう命じ、主人の食事が終わってからその奴隷は食事をするよう命じるだろう、と話されました。そして9節で、《命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか》
と言っています。奴隷が主人に命じられたことを果たしたからといって、主人は奴隷に感謝しません。それが当り前でした。
けれどもイエスさまが、この主人と奴隷の関係を通して本当に伝えようとしていることは、神と弟子たちの関係、神と私たちの関係です。この関係においては、弟子たちや私たちが主人なのではなく、神が主人であり、私たちは神の奴隷です。10節でこのように言われています。《あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい》
。私たちは神の僕、神の奴隷です。神から命じられたことをみな果たしたとしても、それはしなければならないことをしただけなのです。私たちは自分が「取るに足りない僕」であることをわきまえなくてはなりません。信仰を持つとは、私たちが神の奴隷として、「取るに足りない僕」として生きることにほかならなりません。
「取るに足りない僕」は、「役に立たない僕」(聖書協会共同訳)や「ふつつかな僕」(口語訳)とも訳されています。翻訳が難しい言葉ですが、「報酬を払うべき価値がない」という意味でとらえるのが良いようです。滅ぼされて当然の私たちを、救われるにまったく値しない私たちを、神は愛してくださり、大切にしてくださり、独り子を十字架に架けて救ってくださったのです。ですから私たちはこの救いの恵みに感謝し、神の「取るに足りない僕」として、それぞれに与えられている務めを担って、神のみ業に仕えていきます。そのように生きるときにこそ、私たちは神が自分の罪をどこまでも赦してくださったことに気づかされ、ほかの人をどこまでも赦すよう導かれるのです。神の「取るに足りない僕」として生きることこそ、主イエスが私たちに求めておられる本当の信仰であり、生き方なのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子が御心に対する服従と従順によって私たちに救いの道を開いてくださったことに感謝します。御子イエスさまにならい、私たちもイエスさまの僕、また友、兄弟として信仰の道を歩めますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン