33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
十字架につけられたイエスさまの上には「これはユダヤ人の王」
(38)という札が掲げられていました。ローマ兵らの手配した、明らかにユダヤ人を見下す札です。「この惨めな男がこいつらの王様だとさ」という、嘲笑を込めた罪状書きです。
つい数日前までユダヤの民衆はその男が彼らの王となると本気で信じていました。ただし、ユダヤ人は「ユダヤ人の王」という言い回しはせず、「メシア」と呼びます。このナザレのイエスさまこそ待ち望んできたメシアに違いないと思って、多くの人々はついて来ました。実際、イエスさまは力あるお方でした。悪霊を追放し、病気を癒し、大群衆に食べ物を与えるなどの数々の奇跡が噂を呼び、イエスさまはいつも群衆に取り巻かれていたのです。
しかし、今、そのメシアであるはずの人物が、十字架につけられています。「民衆は立って見つめていた」
(35)と書かれています。彼らが見つめていたのはまったく無力なメシアでした。
はじめからメシアだとは思っていない議員たちはあざけりました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」
(35)。ローマ人も真似します。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」
(37)。ユダヤ人にせよ異邦人にせよ、もはや誰もが、イエスさまが力ある王などとは思っていません。本当に力ある王でなければ、要らないのです。
自分たちの求めるものが与えられるという期待があれば追いすがり、無力であることが明らかになったら、離れ去ります。その意味で「十字架につけられたメシア」は人間にとって「要らないもの」の代表と言えます。
しかし、教会は今日に至るまで十字架につけられたメシア(キリスト)を宣べ伝えてきました。後にパウロはこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」
(1コリント1章22-23)。「そんな者は要らない」と言われても仕方のない「十字架につけられたキリスト」を教会が今日まで宣べ伝えてきたのはなぜなのか。続く段落の話がその理由をはっきりと示しています。
十字架につけられたメシアの両側には他に二本の十字架が立てられていました。十字架にかけられている一人がイエスさまをののしります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」
(39)。先ほどの議員のあざけりに似ていますが、意味合いが少し違います。そこに込められているのは、「自分たちは救われて然るべきだ」という思いです。だからそうしないメシアをののしっているのです。
彼については「犯罪人の一人」と書かれています。十字架刑というのは手間と時間がかかる処刑方法です。そのように時間をかけてさらしものにする大きな目的は見せしめです。主に主人に反抗して反乱を起こした奴隷たちか、ローマの国家権力に対する反逆を企てた活動家たちです。ですから、この二人も単なる犯罪者ではなく政治犯であったろうと考えられています。
彼らが政治犯であるならば、イエスさまをののしった男の言葉はよく分かります。彼らは正義のために戦ってきたのです。神のために戦ってきたのです。しかし、現実には異教のローマ人たちが勝ち誇り、自分たちは十字架にかけられて苦しみもがいて死を迎えようとしている。正しい者が苦しんで、悪い者がそれを喜んでいる。そんなこと、あってはならないという怒りが湧き上がります。神がいるなら、メシアが来たというなら、我々は真っ先に救われて然るべきだろう。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。
彼の抱いた思いは、多かれ少なかれ私たちにも覚えがあるでしょう。苦しみの中で私たちもしばしば「わたしは悪くない」とつぶやきます。悪い方が苦しまず、悪くない方が苦しんでいる。もし神がいるなら、これはおかしいではないか。
しかし、同じ立場で、同じ苦しみの中にあったもう一人の人が、そこでまったく違ったことを口にしたのです。彼はこう言います。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」
(40-41)。
お前は神をも恐れないのか、と彼は言いました。彼自身は苦しみの中で、死を目の前にしながら、神の御前に身を置いているのです。彼は神への恐れをもって神と向き合っています。誰が正しいとか誰が悪いとかいうこの世の判断の中に身を置いているのではなく、神の判断の前に身を置いているのです。彼はこう思うのです、「わたしは決して正しくなどない」と。だから、彼は言うのです、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と。
彼が言う「自分のやったこと」というのは、単にローマの法律に背くことや、反権力闘争において行ってきた暴力や殺人のことではありません。彼は自分自身すべてを神の御前に差し出しているのです。そこでは、他の人は知らなくとも、神は知っておられることが問題になります。神だけは知っている心の最も深いところまでを含めた「自分のやったこと」、神だけが知っている自分の人生のすべて、それこそが「自分のやったこと」です。それが正しく裁かれ、正しく報われるとするならばどうなるのか。彼は自分が十字架の上にいることが当然だと思えたのです。
その時に、隣にいる十字架につけられたメシアはまったく違って見えてきます。十字架につけられたメシアなんて要らないのか。いいえ、彼はメシアが同じ苦しみの中にまで来てくださっていることを見たのです。本来、苦しむ必要のない正しい方が、罪人である我々の苦しみの中にまで来てくださっている。そんな思いで彼は言います。「しかし、この方は何も悪いことをしていない」
(41)。
彼はそこにメシアを遣わされた神の憐れみを見ました。神を恐れる者だけが知ることのできる神の憐れみを見たのです。ですから、その憐れみに寄りすがって最後の力を振り絞るようにして、彼はメシアに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
(42)。あなたはこの世に来て、人間の罪の最も深きところにまで来られた。そこで苦しみもがいている私のところにまで来られた。そこで見たわたしを、どうか忘れないでください。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。
するとイエスさまはすぐさま彼にこう宣言されたのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
(43)。メシアは苦しむ罪人の傍らにまで来てくださって今、十字架の上におられます。しかし、メシアは最終的な裁きを行う王です。その王が権威をもって十字架の上から宣言するのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。それは王が権威をもって宣言する罪の赦しに他なりません。彼は罪のゆえに滅びる者ではなく、罪を赦された者として、イエスさまと一緒に楽園にいることになるのです。
彼は神の国においてではなく、死んだ後にでもなく、生きている間に、依然として苦しみのただ中にある時に、その御方から罪の赦しと救いの宣言を聞くことになりました。これが今日も私たちに起こっていることです。私たちもまた教会が宣べ伝えてきた「十字架につけられたキリスト」の傍らにいます。あの赦された罪人と同じところにいるのです。不安や怖れが賛美へと変えられていくことを経験するのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは十字架の苦しみの中ですべての人の罪の赦しを実現してくださいました。私たちがその恵みの御業に応えて、罪の赦しの恵みにあずかり、あなたの祝福のもとで生涯を歩めますように。救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン